政治家の合理的な選び方はあるのだろうか

 安倍政権に対するインテリ層と大衆の評価の乖離

 安部政権ほど知識人から蛇蝎のごとく嫌われた政権が、日本の政界史にどれほどあったのだろう。現代日本の代表的な知識人の多くが、安倍政権に批判を続けてきた。政治学者の白井聡が、安部前首相の退任会見に松任谷由実が寄せた共感の言葉に、SNSで「早く死んだほうがいい」と投稿したことが、大炎上したことも記憶に新しい。

 にもかかわらず、安部政権は大衆から盤石の支持を得て、長期政権を完走した。これは奇妙なことだ。思い返してほしいが、小泉政権以降、2006年から第二次安部政権が誕生する2012年までの6年間に、6人の総理大臣が交代している。その間、数々の失言によってあまたの大臣が退任の憂き目にあっている。本来、日本という国は政権維持すること自体が大変困難な国なのだ。安倍政権時代においても、幾度政権を失ってもおかしくない不祥事に事欠くことはなかった。左派にとっては不都合な事実かもしれないが、安部政権にはどれほど強権を発動しても失うことがない強固な大衆的支持が寄せられていた。

 こうした大衆的支持の状況に対して、多くのリベラル知識人は「大衆が安倍政権を支持するのは愚かだからだ」と慨嘆してきた。

 社会はなぜ右と左にわかれるのか

 ところで、インテリ層と大衆の分断は、日本独自の政治状況ではない。ご存じのとおり、ドナルド・トランプの支持基盤をめぐるアメリカの政治状況も、日本と同様にある。

 ジョナサン・ハイト「社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学」は、そうした分断の背景にある道徳心理学を分析している。その主張を要約すると、人間は理性は感情に従属しており、感情の道徳基盤は6つ(ケア、公正、自由、忠誠、権威、神聖)に分類できる。保守は6つすべての感情に働きかけるが、リベラルはそのうち3つの感情(ケア、公正、自由)しか有効に活用できていないため、選挙で負けてしまうということだ。

 この本が面白いのは、政治選好のあり方を知性の問題ではなく、感情の問題に帰することで、リベラル知識人の政治選好のあり方自体にも内省を促しているところだ。インテリが「理性」に従って選択していると思っていたものが、実は「感情」に基づく選択であり、リベラルアーツの学習自体が道徳の感情基盤のうち、特定の感情を支持するように傾向づける性質をもったものかもしれない、という可能性に我々は自覚的でなくてはいけない。

 例えば、食べ物を地面に投げ捨てて、足で踏みつぶすことについて是非を問いたところ、市井の多くの人々は生理的嫌悪感を表明する傾向が強い一方で、有名大学の学生には、食べ物をどのように扱おうがそれは個人の勝手だとみなす者が多いとのこと。後者のいわゆるリベラルアーツを学んだインテリには、他人に害を及ばさない限り個人の自由は尊重されるべきだ、というJ.S.ミル「自由論」の道徳観が内面化されており、生理的嫌悪を越えて個人の自由を守ろうとする傾向が強いのだ。

 ところで、両者の見解のどちらに軍配をあげるか、という問題について、妥当で合理的な決定方法はあるのだろうか。結論をいえば、できない。これは一方の側が道徳的に劣っているわけでも、また「理性」によって解決しうる問題でもなく、感情の道徳基盤のうち、どの要素をより尊ぶかという選好の問題でしかないのだ。

 心情倫理と責任倫理

 なるほど、人々が「理性」よりも「感情」に従って政治家を選択しがちだということを仮に認めたとしよう。だがそれはあくまで現状分析に過ぎない。本来、政治家はどのように選ぶべきなのか、それが問題だ。リベラル知識人と大衆でそれぞれ尊ぶ道徳感情が異なるからといって、国家をよりよい方向に進めてくれる政治家ではなく、感情的に共感しやすい政治家に投票してよいことにはならない。仮に現在そのような状況にあるのだとすれば、リベラル知識人が大衆を蔑視するのもやむを得ないではないか。

 マックス・ウェーバーは政治家の倫理的態度には、「心情倫理」と「責任倫理」があると語っている。

心情倫理は無責任で、責任倫理は心情に欠くという意味ではない。もちろんそんなことを言っているのではない。しかし人が心情倫理の準則の下で行為する――宗教的に言えば「キリスト者は正しきをおこない、結果を神に委ねる」――か、それとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは、底知れないほど深い対立である。(「職業としての政治」)

 「心情倫理」の下では、行為の結果より動機を尊ぶ。他方、「責任倫理」においては、行為の良しあしはその(予見しうる)結果において判断される。ウェーバーは「心情倫理」よりも「責任倫理」を称揚している。

 社会学者の小室直樹は、このウェーバーの思想に基づいて、金権政治の権力・腐敗の政治家田中角栄を弁護している。政治家が腹黒い古狸であり、ある種の腐敗を抱え込む倫理的に欠如した人物であるという「心情」ではなく、政治的剛腕の持ち主であり国の発展し資するという「(予見しうる)結果」によって、政治家は評価すべきだということだ。

 だが、この「(予見しうる)結果」という概念には、政治家は意思決定の過程ではなく、それが齎す将来の結果に対して責任を持てばいい、というモラルハザードな側面がある。仮にそれを受け入れたとしても、結果の未来予測など果たして合理的に計算可能なのだろうか?

 政治の成果は合理的に評価しうるか?

 ひとまず、未来予測の問題に踏み込む前に、過去の成果に係る評価のあり方について考えてみよう。

 アベノミクスの成果について、これまで多くの識者が見解を述べてきたが、毀誉褒貶で統一的な見解には至っていない。リベラル知識人の中には大失敗で何一ついいところがなかったという人もいれば、株価の上昇や失業率の低さをみて、成功だったという人もいる。経済指標という本来客観的なものが、見る者の欲望に応じて結果(に係る評価)を変えるのはなぜだろうか。宮台真司によれば、それはネトウヨなどの「感情的に劣化した」人々が単に見たいものしか見ないからだ、ということになる。私には一口にそう切り捨てるのはいささか公平性に欠けるように思う。

 ゼロ年代において、多くの知識人が日本経済の将来予測をどのように断じてきたか思い出してみよう。日本経済は衰退する、というのが多くの識者の統一見解だった。最大の要因は人口減少とイノベーションの欠如だ。

 2011年、タイラー・コーエンは「大停滞」において、アメリカ経済の停滞の要因を、「無償の土地・イノベーション・未教育の賢い子どもたち」という3つの”容易に収穫できる果実”が食べ尽くされたことにあると論じた。一般的な経済学の成長論においても、人口とイノベーションは本質的に重要な変数とされている。

 また、賃金水準はその国の生産性に準じるため、日本が劇的な産業の効率化やイノベーションを成し遂げない限り、先進国の技術にキャッチアップして生産性を向上させていく途上国と、長期的には同一水準になるだろう。

 これらの要因は、人口動態をはじめとした根本的な社会構造に依拠しており、政治家の力量で短期的に劇的な改善が望めるものではない。(大規模な移民の受け入れや規制緩和・雇用形態の柔軟化、関税撤廃による自由競争の加速など果敢に実施する手もあるが、保守・リベラル双方からネオリベ批判が押し寄せるのは目に見えている上に、それが根本的な解決に足るかは怪しい)

 そうしたことを踏まえた上で、ゼロ年代において知識人は日本経済の衰退を予見していた。にもかかわらず、その同じ知識人が、「経済が衰退しているのはアベノミクスの失敗だ」と批判の大合唱をするのは、果たして適切だろうか。

 このように、過去の政治成果に係る評価をめぐっても、意見の統一を図ることができない上、その評価自体が見る者の「感情」に大きく左右される事態を、我々は謙虚に受け止める必要がある。

 合理的な政治家の選び方はあるのだろうか?

 「(予見しうる)結果」に基づいて、政治家の資質を見極めるとは、どのような意味だろうか。

 政治家の領域とは、地方自治(総務省)・法律(法務省)・経済(財務省、経済産業省)・国防(防衛省)・外交(外務省)・教育(文部科学省)・福祉(厚生労働省)・農業(農林水産省)・土木(国土交通省)・治安(警察庁)・環境(環境省)等といった多様な分野に跨る。

 例えば、「経済分野では優秀だが、外交音痴な政治家」と「経済音痴だが、外交経験豊かな政治家」がいたとき、どちらを選択することが合理的なのだろうか?合理的な意思決定がありうるのだろうか。

 我々は一つの指標(例えばGDP)に基づいて、人々の選好に関わらず数値の優劣を合理的に判断することができるが、二つ以上の指標において判断する場合は、個々人の選好(どの指標を特に重視するか)に依拠せざるを得ない。ところで、その選好関数はどのような姿をしているのだろうか。政治分野の数だけ変数があり、その変数毎に個々人の選好に応じて重みづけされているのだろうか。ただし、これも個々人の選好関数に限った話である。これが集団的な意思決定となると、何が我々全体の選好なのか判断すること自体が困難となる。「どの政治家を選ぶと国家は最も発展するか」を判断するための合理的な意思決定方法については、原理的に答えが存在しないのだ。

 このことは、「ある政治家の欠点をいくら累積しても、国民がその政治家を選択することを不合理と断ずることは原理的に不可能」だということを意味する。なぜなら、我々が欠点だと考えていること(安倍政権の様々な失態や倫理的欠如等)について、他の人々はそれを重要な変数とはみなさないかもしれないからだ。ある人はこういうかもしれない。「人間万事塞翁が馬だ。安倍政権は経済も国防も教育も福祉もまるで良いところがないが、トランプ大統領とはお友達なので、最終的には日本にとって有益な結果をもたらすことができるはずだ」我々は彼にこういうしかない。「あなたがそう思うんでしたら、あなたの中ではそうなんでしょうね。(私は全く同意しませんが――)」

 マックス・ウェーバーは本当に正しいのだろうか?

 このような不合理な結論に至るのは、「心情倫理」よりも「責任倫理」を優先すべきだというマックス・ウェーバーの論理を、政治家の選択方法にまで延長したことにある。我々は今後、この思想を再検討に付す必要があるだろう。

 ただし、ここには一つの知見がある。冒頭で政治学者白井聡による松任谷由実への蔑視を取り上げたが、この背景には、知的誠実さをもつ人間であれば安部政権を支持するはずがない、という白井の価値観がある。こうした態度は、リベラル知識人には頻繁に見受けられるものだ。我々はソクラテスの産婆術のように、彼らに問いかけてみる必要がある。「なぜですか?」彼らは何かしら理由を答えるだろう。「ところで」とあなたは更に問いかける。「それは安倍政権を支持しない十分な理由になるのでしょうか?」

 少なくとも現時点においては、政治家の良し悪しの判断は我々の理性を越える問題なのだ。

 

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