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読書|怪談の絵本「いるのいないの」、あっ、これってわたし?

知り合いの家に遊びに行った時です。

突然「これ読んでみて」と渡されました。

いるのいないの:京極夏彦、町田尚子、東雅夫


「絵本」です。


まさかこの年にもなって絵本をまじまじと見る経験をするとは思いませんでした。

ただの絵本だったら私もスルーしたでしょう。

しかし筆者を見てびっくり。

そこには京極夏彦の名前があったのです。

若かりし頃の彼は、元々物書き畑のニンゲンではなかったそうです。
そんな彼が気まぐれに書いた小説を、講談社ノベルスの編集部に送り付けたのが始まり。

(これは高名な作家が編集部を試しているドッキリでは?)と、
編集部はそのあまりの完成度の高さに、たった2日で連載をオファー。

その連載のオファーを受け取った京極夏彦は、
(これは、わたしをからかうつもりのドッキリでは?)

お互いにドッキリじゃないか?と疑いあったという伝説的な、エピソードが残っている程です。

そこから作家としてデビュー。
「百鬼夜行シリーズ」と呼ばれる怪奇奇談集。
そして私のこよなく愛するミステリー代表作である「魍魎の匣」


日本でいえば妖怪の専門家といえば「ゲゲゲの鬼太郎」著者の水木しげる先生ですが、では二番目は?と聞かれれば、私は京極夏彦先生だ、と答えるでしょう。



そんな彼の監修した

「いるのいないの」


おおよそ子供向けとは思えない恐怖を駆り立てる画風。

ある日、田舎のおばあちゃん家にとまりにきた「ぼく」が、

家の中に「別の存在」を感じ続ける話、と概要もどこか不穏。

作中には尋常でない数のネコが登場するのですが、お世辞にもカワイイとは言えない。

画風もあいまって、なぜか見ていて不安になる。

まるで、別の存在に気づいていながらも、ネコたちはその存在を気にもしていない。

ネコたちの一見かわいい振る舞いすらも、人間である「僕」の不安の種になる。

作品のざっくりした解説は下記サイトを見るのが早いです。

ここからは私の感想について書いていきます。

ネタバレが嫌な方は、ここで止めておくことをおすすめします!!!





これはまず私自身の見当違いの考察だと思って読んでください。

パラパラと本をめくっていく途中で、

「あれ??」

となったのです。

なんだかね。

ずっと「ぼく」と「わたし」

目があってる気がするのです。


たしかに、私は、この「ぼく」が田舎町にやってきた描写からしか知りません

ぼくが、どうやってこの田舎に来たのか、元々どんな家に住んでいるのか。

本を読んでいる「わたし」の視点ではそれ以外の情報がまったくわからない。知りようがない。

「わたし」は「ぼく」を観察します。

本を読んでいる「わたし」は「ぼく」の事が知りたくて、食い入るように見つめます。

だって絵本を読んでいるのですから、見つめるのは当たり前です。

でもたびたび、「ぼく」はこちらに視線を向ける。

目が合う。

この特徴的で、おどろおどろしくて、それでもどこか惹かれる画風で描かれた「ぼく」

そのどこまでもリアルで現実的なぼくが、第四の壁をこえて、こちらの瞳孔を見つめているのではないか。

そう錯覚するほどに「ぼく」の目線はこちらを突き刺しているのです。


ぼくはおばあちゃんに「何かがいるよ!」と訴えます。

するとおばあちゃん、

「なにもしないから こわくないさ」

「みなければ いないのと おんなじだ。」

と答える。

おばあちゃんは、ぼくの言葉を否定をしないのです。

けっして「いない」とは言わない。

ぼくの言葉を、日々の忙しさの合間にも聞きいれながら

決して否定しない。

それってはもう「いる」と言ってるようなもんなのです。

そして、もうひとつ気づく。

「わたし」は「おばあちゃん」と、一度も目が合っていない。

おばあちゃんは、いつも後ろ姿だったり、どこか別の部屋だったり、画面の遠くだったり。

「おばあちゃん」は「わたし」の存在を認識していながら、こちらを一切気にしていない。


でも、新参者の「ぼく」とはヤケに目が合う。


様々な興奮や、妄想が「わたし」の中に広がります。

いつの間にかわたしは、想像力、いや妄想力の波の中を漂っていました。

思わず興奮して、

「これって、わたしじゃない?!!?!」

と友人に話してしまいました。

きっと傍から見たその姿は、そこらへんの3~4歳児と変わらなかったことでしょう。

まさか、絵本でここまで子供返りするとは思ってみませんでした。

この絵本にそれだけの魔力があるのか、それともわたしの中にまだまだ純粋な子供心が残っていたのか。

この絵本を、たかが絵本と切り捨てることは、わたしの中でもうありえない。


その後のパラパラとめくり続けてなお目が会い続けた「わたし」と「ぼく」がどうなったか・・・

「ぼく」の見ていたものは「わたし」だったのか?






その答えは・・・


うふふ

読んでみてのお楽しみ!!


もしも、身近で触れる機会があれば、手にとって見てもよいでしょう。

この本について、京極先生はこんなメッセージを残されています。

ヘンなものを見てしまったとしても、幼児はそれが何だかわからないんですね。大人だってわからないんだけども、「幽霊だ」とか「見間違いだ」とか、なんとか決着をつけたがるでしょう、大人は。
それこそ「いるのいないの」、というくだらない話になる。ヘンなものが見えることはままあるわけで、それをそのまま受け止めることができないんです、大人は。

http://blog.livedoor.jp/genyoblog-higashi/archives/7043645.html


大人が知識や知恵を身につければつけるほど、型にハマっていく。

するとその型を押し付けてしまうようになる。

でも幼児はどこまでも自由。

なぜ「怖い」かを考えるのは、大人ではなく、このホント向き合った読み手自身。

それに対して、さまざまな読み手が、さまざまな感想を抱く。

それこそが多様性の在り方で、大切にしていくべき文化なのかもしれません。


とにかく!!!


この絵本の文字数は、800字程度です。

ですが、読み物好きとして、はずせない素晴らしい作品です。

ぜひ、まっさらな気持ちで読んでみることをオススメします。

可能なら、身近なこどもたちにも感想をきいてみたいものですね。

ではでは。


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