『もののけ姫』の構造:矛盾を受け止める、アシタカの左胸
はじめに
今回は1997年に公開されたアニメーション映画『もののけ姫』を取り上げ、その構造を考察する。広くほかの評論を探したわけではないが、ほかのアニメ評論などでは聞けない、なかなか面白い構造分析となっていると思う。
「もののけ」としての大屋根
タタラ場には「大屋根」と呼ばれる、巨大な建物がある。大屋根は「高殿」とも呼ばれ、過酷なタタラ製鉄が行われる、タタラ場の中核的施設といえる。施設内では、女たちがふいごを踏み、タタラの火が夜も絶えることなく煌々と、鉄を作るために燃やされる。
タタラ場と敵対関係にあるのが、シシ神の森に住むもののけ、とくに犬神の一族である。彼らは森を切り拓くエボシ御前を憎んでいる。そんな犬神や、もののけたちの「眼」に、憎々しいタタラ場の大屋根はどう映っていたのだろうか。取り上げる場面は、夜中、もののけ姫が犬神の子らとタタラ場を襲撃する直前である。
映像を見てもらうのが一番わかりやすいが、大屋根がまるで「一匹のもののけ」のように見えるのである。この場面では、もののけたちを「眼光」で特徴づけている。劇中に夜の場面は他にもあるが、犬神の眼が光る演出は取り上げた場面以外にない。そのうえで大屋根の通気口の赤い光を意図的に「眼」のような大きさに見える位置(大屋根が「もののけ」のような大きさに見える位置)でスクリーンに配置しているのである。
大屋根は森を切り拓き、もののけへの攻撃に使われる鉄を生み出すタタラ場の中心である。大屋根の巨大さと赤い眼は、もののけたちにとって憎々しい夜行性の人工的な「もののけ」に見えていたかもしれない。こういったもののけたちの感情を演出に反映しているのである。
去ってゆく「超越者」たち
あなたは『もののけ姫』劇中にて、よく似た2つのセリフが、よく似た2つの場面に使われることをご存知だろうか? あなたはこう答えるかもしれない。
「エボシの『ざまぁない』だろう」
「いや、エボシの『が、ちょっと重いな』だろう」
「いやいや、男性ハンセン病患者の『こわや、こわや』だろう」
しかしどうだろう。人にはそれぞれ口癖があって、同じ人物の発言が同じことはよくあるのではないだろうか。筆者の発見では「同じようなセリフ」を、それぞれ別な2人の人物が「同じような場面」で発するのである。これは制作側が意図的に配置した構造であろう。
この2つの状況はいくつか共通点がある。
アシタカは邂逅した生き物を、この森の主であるシシ神であると、この時点では認識していないものの、タタリをもらった右腕が暴れ出したことから、シシ神の不思議な力を意識している。これまでの劇中で、右腕の暴走には暴力が伴っていたが「出会っただけで右腕が反応した生き物(=シシ神)」を、アシタカは心のどこかで「超越者」として捉えた。これがアシタカのセリフ「行ってしまった」に現れている。
一方、牛飼いの長はアシタカの人間離れした生命力と腕力、さらにタタリの呪力を表出させ、コントロールする姿をみて、アシタカを「超越者」として捉えた。これが牛飼いの長のセリフ「行ってしまわれた」に現れている。
つまり、アシタカは、シシ神に対して感じた「超越者」としての畏怖を、今度は自らが周囲に対して感じさせるのである。これはタタリをもらった右腕をコントロールして、タタリ神の力を使うことができるようになったアシタカが、シシ神と同質の「超越者」になったことを示す構造である。
傍観と介入、死と生、シシ神とアシタカ
シシ神は傍観者である。タタラ製鉄により森が破壊されても我関せずといったようすであり、生命を奪いもし、与えもする。エボシに銃口を向けられた際にも、エボシを殺そうとはしなかった。
対照的にアシタカは介入者である。曇りなき眼で見定めるという信念に従い「森と人の共生」という、もののけもタタラ場も望んでいない方向へ突き進み、自分のエゴともつかぬ介入を見せて行く。
両者は「人間の所業」によって死の縁に立たされていたという点では共通している。結果、傍観者は死に、介入者は生き永らえた。同じセリフで去ってゆく2者がこれほど対照的であることも興味深い。
「最後の矢」は放たれない
アシタカが扱う代表的な武器として弓矢がある。映画の冒頭でタタリ神を撃ちぬいたのは弓矢である。つまり、弓矢の使用はアシタカの旅が始まる契機である。また、ジコ坊の話によると石の鏃を用いるのが、蝦夷一族の矢の特徴であることが分かる。弓矢とアシタカは同質といえる。
アシタカの弓矢はいつも止むなく放たれる。アシタカにとって弓矢とは「最後の手段」であり、積極的に使われるものではない。アシタカが矢を放つシーンを振り返ってみよう。西への旅立ちの前後と、蝦夷の矢(石の鏃)であるか否かという2点で区別する。
ここまで見ると、旅立ちに際し、蝦夷の村から持ってきたと思われる4本の石の鏃の矢は(4)(5)(8)の場面で、うち3本が使用される。残る最後の矢はどのように使用されるのか。
アシタカが所持していた最後の矢は、犬神を助けようとする最中に折れてしまうのである。そしてアシタカははっきりと「最後の矢」といっている。前述したとおり、本作品において弓矢は暴力の象徴のように描かれる。話し合いの通じない者への「最後の手段」として使われるのだ。「最後の手段」である弓矢の「最後の矢」が「殺す」という本来の用途ではなく「助ける」ために使われたのは興味深い。
このあと、アシタカは森と人との共生を目指して奔走するのだが、アシタカの目的は換言すれば「救済」である。
「殺す」ことなく、森と人と、両方を救いたい。そんなアシタカの思いが物語の終盤の冒頭に、この演出で表現されるのである。
「矛盾」を受け止める、アシタカの「左胸」
左胸とは人間にとって、一般に心臓の位置する部位である。手を当てれば小さくしかし強かな鼓動と一定の拍がある。左胸は人間にとって最も大切な部位のひとつである。さて、『もののけ姫』では、アシタカの「左胸」が「矛盾」を受け止める演出がある。
アシタカと寡婦
この場面で寡婦は「サンは殺したいが、アシタカは殺したくない」という矛盾を抱いている。寡婦の目的は「サンを殺すこと」である。ここでアシタカを撃てば、確実にサンも仕留めることができる。しかし、寡婦は撃たない。アシタカの美貌にほおを赤らめ、あるいは、人命を奪う殺人への恐怖もあるだろうが「サンを殺したい、夫の仇を討ちたい」という気持ちと矛盾する感情が湧き出でて、撃てないのである。
その「矛盾」が生んだ産物が「事故的誤射」であり、これを受けるのはアシタカの「左胸」である。「左胸」はこの後、シシ神によって完治せられ、犬神の寝床に数日アシタカは滞在することになる。
特別な男女関係
アシタカは何日も眠ったままで、その間サンの世話になったことがモロとの会話から分かる。この洞窟にはモロもモロの子らもおらず、2人きりである。2人の寝床の距離は心理的な近さを表し、サンの無邪気な笑顔は恋する乙女そのものである。
アシタカは眠るサンに毛皮を掛けてあげるが、以前と同様の関係性であれば「やめろ!」と毛皮を払いのけても不自然ではない。翌朝、アシタカが目を覚ましたら、毛皮をかぶっているのはアシタカであるから、早朝にサンが毛皮をアシタカに掛けたのであり、相思相愛そのものだ。
サンのために命を懸けたアシタカは、女であれば誰もが頬を赤らめるほどに美男子である。しかもアシタカによる「そなたは美しい」という告白もあった。サンとアシタカはこの場面ですでに男女の関係なのだ。
玉の小刀と左胸
翌朝、アシタカの衣服の左胸の部分は修繕されている。後のシーンではアシタカのほおかぶりの切り傷も縫合されていることが分かる。アシタカの左胸はサンを守るために受けた傷であり、ほおかぶりの傷はサンの短剣によるものである。これらを直すのはアシタカと恋仲となったサン以外にはない。また、目を覚ましたアシタカの枕元には携帯用の食べ物と衣服が畳まれて置かれていた。
問題としたいのは左胸の傷を縫った糸である。黒い糸に交じり、白く輝く糸が見える。これは山犬の毛に他ならない。サンがいつも着ている服はおそらく山犬の毛で作られている。サンが単に黒い糸だけで修繕せず、山犬としてのサン自身の毛をアシタカの衣服の左胸部分に編み込んだのは、アシタカのことを男として見ており、死んで欲しくないという意志の表れだろう。
つまり、アシタカの左胸は、アシタカに対する「サンの好意の象徴」となる。一方、サンに対する「アシタカの好意の象徴」は、玉の小刀である。
2人はこの時点で、相思相愛の男女関係にあった。しかしこのあと、サンが自らの矛盾をアシタカにぶつけることになる。
サンの矛盾
《属性》の矛盾
サンは「自称山犬」だ。犬神一族だと自負しており、モロも、その子らも認めている。しかし、生物学的には人間である。モロにいわせると「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘」なのだ。「そなたも人間だ」と諭すアシタカに、サンは「山犬だ!」と大きな矛盾を自らに刻み込み、玉の小刀で彼の左胸を攻撃する。
《感情》の矛盾
前述したとおりサンとアシタカは特別な男女関係である。また、シシ神の暴走直後、サンの精神は不安定な状況にあることが想像される。乙事主のなかでタタリ神の呪力にのみ込まれ、これまで母と慕ってきたモロが死んだ。シシ神の首が落とされ、これまで守りつづけてきたシシ神の森が死んでいく。さらに追い打ちをかけるのは、アシタカがエボシを救出し、自らの衣服で止血処置をしたことだ。アシタカを想い、山犬の毛で直した衣服が、憎き敵であるエボシを助けるために使われている。サンは憤るに違いない。
サンの矛盾とアシタカの左胸
サンはアシタカから貰った玉の小刀で、愛するアシタカを突き刺す。そしてその位置はサン自身がアシタカを思い、自らの「山犬の毛」をもって守護しようとした左胸なのである。
サンには「人間は嫌いだけど、アシタカは好き」という矛盾と「アシタカは好きだけど、今のアシタカの行動は許せない」という矛盾、さらには「人間でありながら山犬を自称する」という矛盾が存在する。これらの矛盾が、お互いに愛し合った印=「好意の象徴」である「玉の小刀」と「山犬の守護を受けた左胸」との衝突によって、サンの矛盾を、アシタカの左胸が受け止めるのである。
「殺す」ことなく、森と人と、両方を救いたい。これまで見てきたアシタカは、高貴な理想のために矛盾を自ら引き受け実践するものであった。モロやエボシにたしなめられながらも道を模索しつづけたアシタカは、サンの矛盾もまた受け止め、物語は佳境を迎える。
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