【書評】松永K三蔵『バリ山行』―山がある、故に高みへ
なんの前情報も入れずに読もう、と思った作品だった。
「バリ山行」という、初めて見る日本語。作品の中でその謎が解けるのが楽しみだったからだ。
登山用語なのか、作者の造語なのか。それすら曖昧だった。
問いはひとまず脇に置いて、物語に沈み込む。
するとあっという間に読み切ってしまった。
『バリ山行』はスリリングかつ格調高い純文学小説である。
ずっと関東に住んでいる自分にとって「六甲山地」というものが兵庫県民にとってどういう意味を持つのか、正直なところずっとわかっていなかった。しかし今年初めて甲子園と神戸を訪れて、「どこにいても眼前に山がある」感覚をようやく理解した。
坂の向こうに壁のように聳える山地……。関東平野のだだっ広さに慣れていた自分には少し窮屈な風景にさえ感じられた。
『バリ山行』で登場人物が登るのはすべて六甲山である。
波多が登山を始めたきっかけも六甲山、妻鹿が毎週毎週入り込んでいるのも六甲山。そもそも「山がいつも意識のどこかにある街」でなければ、主人公も登山に興味を持たなかったのではないだろうか。
そして同時に神戸のような街は、逆に言えば「山が街に近い」ともいえる。どれだけ深い山に入り込んでも、主人公はどこかで街の生活を意識してしまう。
傾く会社。家族の白い目――。
しかしそれも当然だ。六甲山から市街地までは直線距離でほんの3~4kmも離れていないのだから。
雑事を振り払うように山に没頭しているにも関わらず、「街」の生活から逃れられない。
そんな波多の苦しみは、ラストの妻鹿とのやりとりにも直接繋がってくる。
もし波多が自らの住む街から遠く離れた山に登るのを常としていたら、こうした思考にとらわれていただろうか。
そういった意味で、『バリ山行』はとても「土地」に根差した作品だ。
そして妻鹿とともにバリへ入る波多の視点からの風景描写は本当に瑞々しく、映画のようでさえある。この作品の白眉と呼べる爽快感の溢れるパートだ。
山をやっている友人は以前「三十代なのに結婚式より周囲の葬式の方が多い」とよくぼやいていたが、彼らが見ていた世界はこうだったのか、とも感じさせられる。
危険だとわかっていてもやめられない。
自然の中で人間がたった一人で在ること。生に対してたった一人で全責任を負うこと。妻鹿の語る「本物の危機」に向き合うこと。
「バリ」は確かに常識のある登山者は絶対に止めるべき危険な「ルール違反」なのだろう。六甲山のような低山ではなおのこと危ない――というのは、作品前半を読むだけで身に染みてわかる。
とはいえ、文学は本来そういった「侵犯」や「越境」こそを描いてゆくべきであろう。
『バリ山行』を読み終えた数時間後、たまたま神宮球場にヤクルト-阪神戦を見に行く機会があった。
小池百合子都知事が始球式を投げ、ヤクルトはサヨナラ勝ち。
同行者の都合で三塁側で見ていたため、小池氏の始球式では「チカ~(※近本選手)、打ったれ~!」という野次が飛び、点が入るたびに「六甲おろし」の大合唱……。
その後、折角なので都知事選以来積んでいた『女帝 小池百合子』を読んでいたところ、小池氏は実は芦屋市出身という記述に出会った。
私自身小学校の頃から練馬に住んでいたので、小池氏に関しては衆院選で東京10区から立候補したイメージが強かったのだが、それに関しては10区の小林興起氏が郵政民営化に反対・造反したために、「刺客」として自ら鞍替えしたようだ。
芦屋は山側ほど、高い土地ほど「高級なお屋敷が多い」。小池氏の実家はちょうどその中間にあった。
畢竟、人生の指向性として「上を目指す」ことになったのではないか――筆者はそう指摘する。
まさか神宮で野球を見て小池百合子の生と六甲山について思いを巡らすとは予想だにしなかったが、『女帝 小池百合子』も『バリ山行』に負けず劣らずの名著であった。セットで是非お勧めしたい読書体験である。