西行の足跡 その16

14「さらに又そり橋渡す心地してをぶさかかれる葛城の峯」 残集32
 一言主神が役行者に命ぜられて途中まで架けたという岩橋の上に、もうひとつ反り橋を渡したような、大きな美しい虹が葛城山に懸かっている。
 
「をぶさ」(緒総)とは虹のことを譬えていったものであり、葛城は修験道の聖地である。「金の御嶽(金峰山)と「葛城の御嶽」(岩橋山)との間に端を架けろとは命じられた鬼神たちは、昼間は働かなかった。なぜなら、自分達の醜い姿を恥じたのだ。そのため、橋が完成しなかった。そのことに怒った役行者は一言主神を谷底に呪縛したという。
 
 さて、大和葛城山を北西方向に下ると、引川寺がある。引川寺は、西行終焉の地であった。
「葛城やまさきの色は秋に似てよその梢の緑なるかな」 
 山家集下・雑・1078
 葛城の名にゆかりのある「まさきのかづら」は、秋を先取りして見事に紅葉した。他の木は梢まですっかり緑なので、その色彩の対照がまた美しい。
 
 なお、「まさきのかづら」とはテイカカズラかツルマサキのことだとも言われているが、どちらも常緑なので紅葉しない。そこで、西澤教授は「サンカクヅル」のことではないかと言う。
 西澤教授によれば、「虹」は和歌にはあまり詠まれなかったという。万葉集には次の歌がある程度だとのこと。
「伊香保ろの八尺の堰塞(ゐで)に立つ虹の顕はろまではさ寝さ寝てば」  
 万葉集・巻14・東歌
 伊香保の高い堤防に立つ虹のように、どんなに人目につこうともお前と寝たい。
 
 ところで突然話を変えるが、徒然草の十段に西行の話が出てくる。
 引用ここから
 後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寝殿に鳶(とび)ゐさせじとて縄をはられたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。此の殿の御心(みこころ)、さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮(あやのこうじのみや)のおはします小坂殿(こさかどの)の棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙(かえる)をとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にもいかなる故か侍りけん。
 引用ここまで
 
 現代文ではおよそ以下の通りになる。
 後徳大寺左大臣が、屋敷の正殿に鳶をおらせまいとして縄をお張りになったのを、西行が見て、「鳶がいるのが、どうして不都合があろうか。この殿の御心はこの程度か」といって、それ以後参上しなかったと聞いていましたので、綾小路宮(あやのこうじのみや)性恵法親王がお住まいの小坂殿の棟に、いつだったか縄をお引きになっていたので、西行の例を思い出してありましたら、まあ、なんということでしょう。
「烏が群をなして池の蛙を取るので、宮さまは御覧になって悲しまれたからなのです」と人が語ったのこそ、何と素晴らしいと思ったことでした。徳大寺のお屋敷に縄を張っていたのも、どんな理由があったのでしょうか。
 
 面白いのは、徒然草の作者はなぜか後徳大寺実定の事情を勘案してやろうとでも思っていたかのような書き方だが、後徳大寺の家来でもあった西行は、冷徹かつ正確に主人の器量を見定めた。そのような冷徹な目を持つ西行だからこそ、聖地の聖性を見定められたと思って良い。

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