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雑記 細川忠興書状発見の経緯とその意義について

第一話でお話した寛永4年(1627)とされている細川忠興書状(息子·忠利宛)は私が卒業論文作成の際に奈良大学図書館で発見した史料で、私史上最大の発見といっても過言ではありません。
この頃、「甲陽軍鑑」に出てくる逸話を論文で用いるべきかいなか決めかねていました。そんな折、私は目に入った「大日本近世史料 細川家史料2」を咄嗟に手を取って忠勝関係の史料があるかを探しました。そしたら、件の書状を見つけたのです。この書状を見た私は思わず声をあげてしまいました。コロナ流行で図書館が閉鎖される直前の2020年4月のことでした。
この書状は、忠勝が同時代人物かつ戦国武将である細川忠興から慕われていたことを窺わせるものであると同時に、いわゆる「家康に過ぎたるものは二つあり。唐の頭に本多平八」という狂歌がほぼ同時代に実在したことを示す貴重な史料なのです。
戦国武将を賞嘆するような逸話や狂歌、称号(鬼○○など)は十中八九江戸時代に創作されたものなのですが、忠勝の狂歌は実際にあったのです。この書状がいかに重要であるかはこれを以て知るべしと言えるのです。また、これにより、島左近を賞嘆した狂歌「三成に過ぎたるものが二つあり。佐和山の城に島の左近」がこの狂歌のメタファーであることが確定したのです。

細川忠興書状。寛永4年に比定されており、内容から忠興が忠勝を武将として畏敬していたことが窺えます。


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