気が利かないと嫁の貰い手がないぞ

〇〇年 高橋優子
#ティアラ・シンドローム

日が随分長くなったとはいえ、北向きの給湯室はすでに薄暗いから嫌いだと優子は思う。
案の定、給湯室の小窓から見える空の一番星は、流し台を占有する灰皿を弱々しく照らしていく。見慣れた光景だから、顔には出さない。でも、7cmのハイヒールに押し込んだ脚先は正直に痛みを訴える。

経費の無駄遣いだから、これぐらいの明るさであれば電気はつけない。優子なりの矜持でもあるから、手探りで片づけていく。もう何年もたつのでなれたものだ。

それでも、明朝の会議資料は仕上がっていないので、少しでも早く取りかかりたいのにと気は焦る。それにたかが灰皿といっても、製造3課は優子をのぞく正社員はすべて煙草をたしなみ、多くはヘビースモーカーだからそれなりの量だ。仕事が終わった男性社員は使った流しに積み上げる。女性社員は会社ではたばこを吸わない。

そうして、1日の終わりには使い終わった灰皿がシケモクをサンドイッチした形で、何十にも積み重なる。今日は顧客対応に昼休みをとられ、午前中分を洗えなかったからよけいにうずたかく積まれている。チクリ。ああ、足先の違和感はストッキングに何かが刺さっているのだろうと検討をつけた。

仕方がない。早く片付けよう。終業後に灰皿をすべて掃除してから、優子にとっての「業務時間」は始まるのだ。こんな雑務は早く片づけてしまいたい。仕事に卑賤はないというけれど、評価として積みあがる仕事と、そうでない仕事はあって、女性初の総合職として入社した優子に日中割り振られているのは「そうでない仕事」が多数だった。灰皿すべてを洗い上げてリセットし、靴の中のゴミをとる。懸念事項をすべて取り除いてから、誰にも邪魔をされずに、積み上げる意味を感じられる業務に優子は没頭したかったのだ。

「おーっと、ごめんよぉ」

灰皿を洗っているそばから、先輩部員が洗った灰皿の上に、灰がいっぱいの灰皿を重ねた瞬間、灰皿がいっぺんに倒れた。結局もう一度だ。

「先輩!だめっすよ。そこの灰皿、優子先輩が洗ったばかりなんですから」
「あー!そうか?優子、気づかずすまんな」
「いえ・・・」
「でもな、こんなにためとかずに昼にちゃんと洗っておけよ。気が利かないと嫁のもらい手がないぞ」

おどけた注意もいつものことだ。今更いらつく必要などない。

「にしても、高橋、お前、細かいやつだなあ」
「えへへ、俺、レディーファーストっすから」

高橋勇気は優子よりも1年下の営業部員だ。若いのに、細かいことに気が回るやつとして、先輩の信頼と期待を一身に受けている。彼が入社してから、「同じ名字で紛らわしい」という理由から、彼が高橋と呼ばれることになり、高橋優子は優子と言われることが増えて、次第に定着した。

「おおーい!高橋、接待行くぞ」
「はい!今行きます。優子先輩、いつもありがとうございます」と一声添えて、高橋はまだ洗っていない方へ灰皿を重ねるが、吸い殻は捨てない。仕方がない、彼らは灰皿なんて洗うことはないのだから。親指の違和感は消えるどころかどんどん大きくなる。

優子が高橋のように、接待の席に帯同されることは多くない。一番の理由は優子に愛想がないからだろうが、会食の後はキャバクラに行くのがいつものルートだ。先輩たちも一応気を使ってくれているのだろう。男女で向き不向きのわかれる役割もあるだろう。

優子にしても、あの場に行くよりも資料作成をしているほうが、幾分ましだろうと思っている。今から作る資料は、明日課長が使用するものだ。コピー取りからはじめて、議事録作成、そしてやっと会議資料の作成を任せてもらえるまでになったのだ。

でも、ふとした瞬間に優子は思う。自分が何枚灰皿を洗おうと、何枚課長の名を記した会議資料を作ろうと、高橋が今晩先輩方に注ぐビールの一杯には勝てないだろうと。

末端の痛みの煩わしさにうんざりして、優子は人知れず、ハイヒールを脱いだ。痛みのある左足のストッキングの入念に探すと、同色の麦わらが刺さっている。そういえば、朝、慌てて家を飛び出した時に、かごバックを盛大に踏みつけて壊してしまっていた。その時に刺さったのだろう。今まで気づかなった自分に苦笑しながら、麦わらを取り除く。ハイヒールの違和感はたちまちに消えた。

洗い終わった灰皿の一枚を手に取り、ポケットに隠していたマルボロの1本に、ガスコンロで火をつける。先程の麦わらにタバコの灰を落とすと、赤い火がパチパチと音をたてた。

白い煙を吐き出すときには、灰皿の上のに、ちょうど月が収まる形となった。月に吸い殻をこすりつけて、優子だけの「業務時間」ははじまる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?