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深読み:始まりがあるものには終わりがある

映画としては、もはや古典かもしれませんが、『マトリックス』3部作の完結編をふと思い出しました。第3部は、難解で、後味の悪い終わり方をするので、評価がわかれる内容でしょうか。クライマックスのシーンで、宿敵エージェント・スミスを倒した(自滅させた)必殺技(言葉)が、これだからです。

「始まりがあるものには終わりがある」……いま、私は何と言った?

スミス自らの口から、こぼれ落ちるように出ました。恐怖したスミスはネオを取り込み、スミスに変えます。現実世界のネオの身体が黄金色に輝くと、すべてのスミスが内側から輝き出して粉砕されます。
「始まりがあるものには終わりがある」の逆は、「始まりがないものには終わりもない」ということになります。
ここで思い出されるのが、バガヴァッド・ギーターの詩句です。

アルジュナよ、マインドにあるすべての欲望を放棄し、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと人(スティタプラジュナ)と言われる。

インド哲学では、究極の状態として、非二元性の思想、つまり個々の魂と至高の魂の合流が説かれています。
アートマンと似た概念として、プルシャというのがあります。アートマンとプルシャの違いを説明するには厳密な議論が必要ですが、端的にいうと、両者は同じものと考えてもいいと思います。しいていうなら、アートマンが抽象的であるので一般人には実感のわかないものであったので、より具体的にするためにインド哲学のある学派が、プルシャというより具体的な概念を導入しました。「バガヴァッド・ギーター」のクリシュナを「最高のプルシャ」とし、最高神の言葉を伝える霊能者のような存在を通して、「見える化」させました。人々は絶えず神の化身であるクリシュナを熟考することにより、絶対の境地の実現に至ることができると説きました。
このプルシャの説明として、「いかなる変容も受けない(不変)」「行為が無い」「属性がない」「喜びと悲しみ、善と悪といった二元性には結び付けられない」「因果関係がない」「始まりも終わりもない」「自ら光を放つ」などが挙げられます。プルシャが精神的原理であるのに対して、物質的な原理(プラクリティ)があります。この低次の原理プラクリティにより通常、人間の思考や行動は支配されています。マーヤー(幻想)が作り出されています。
マトリックスを見ていると、現実と仮想現実の対比は、実在論と観念論の対比としてみることもできますし、インド哲学の観点から見てみると、エージェント・スミスというマーヤー(幻想)を打ち破ったのは、アートマンまたはプルシャが宿るネオという神の化身であったようにも解釈できます。それを人は、愛や信愛と呼ぶかもしれません。


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