萩尾望都 一度きりの大泉の話を読んで

誤解を恐れず一言で言ったら「天才に嫉妬した秀才?」
もちろん竹宮さんの実力を周知した上での話です。風と木の詩も全部読みました。
私もジャンルは違いますが、クリエーターの端くれなので、嫉妬というのは良くわかります。嫉妬もされて嫌がらせされたこともあります。
でも往々にして嫉妬された方は自分の何が凄いかなんて凄いかなんて分からない事が多いです。若いうちは自分のことなんか客観的に見れないことがほとんどだし、締め切りに追われて日がな一日中アイデアを練ったり書いたりしてるわけですから、周囲の空気に気を配るとか基本苦手です。

まして、先輩であって、自分が上京するキッカケを作ってくれた人たちだし、感謝も相当あったでしょう。盲点です。だからこそ思い切り刺さったんだろうし、それは読めばわかりますが、萩尾さんにとってそんじょそこらの苦しみでは済まなかったと思います。下手したら入院レベルですこれ。よく耐えたと思います。

贔屓目でなくても伝わってくるほど萩尾さんの才能というのは凄まじいし、特に初期短編のあのカミソリのような鋭さと透明感はもう、魂を持ってかれます。「ポーの一族」や「みつくにの娘」なんて私の潜在的トラウマまで引き出しました。今読んでも涙が止まらない。
大泉に萩尾さんに会いたくて集まった同業者が多かったのも宜なるかな。なので、むしろ、疎外感を感じていたのは竹宮さんだったのかもしれません。それでM女子との蜜月一心同体になっていった。

私はM女史が相当のキーパーソンだったと思います。お嬢様育ち、親の意向もあってピアニストを目指すも挫折、強烈な自意識を持て余して少年愛に趣味嗜好が全力で向く。知識も豊富。いわゆるお嬢文学少女。しかし物作りのプロではない。むしろ素人。やたらと口を挟んでくる。
事件が起こる前にM女史の容態を読んでいていて「あ、この人やばいな、なんかやらかすな」と直感的に思いました。私がやってる分野にこういう人がいたらまず避けたい人第一号です。

後年M女史はインタビューであの場にはいなかったと述懐してますが、これ嘘だと思います。こういう策士的な人って往々にしてブラフかましますので。いたでしょう絶対に。
そして、相当竹宮さんを焚きつけたのではないかと思います。二人でBL展開を色々模索していたわけですから、女子同士特有の盛り上がりで「何よあれ!」みたいになってたのはまあ、想像に難くないです。
びっくりしたのはその後もしゃあしゃあとした顔で萩尾さんと会って「ごめんね」とか言ってるあたりが空恐ろしいと思いました。下手したら一人の才能殺すところだったんですけどね。まあみんな若気の至りだったのか。

竹宮さんがある種M女史に依存していたのだったら、それこそが一番危うい行為でした。今更言ってもですけどね。でも竹宮さんもそうするしかなかったんでしょう。
近年少年愛がBLと呼ばれ世に周知されていきましたが、こういうのはいわゆるマイノリティの話であり、多分に趣味的要素も含んでます。誤解を恐れず言えば変態の世界です。私は男性ですから、男が女性の同性愛を愛でるというのはまずない発想ですが、女性の中にはあるんですね。あれは何かの抑圧された性欲の一つの解放表現なのでしょうか。何れにせよ決して健康ではないし(不健康なのがいけないとは言ってない)、特に近年ペドフィリアなどの犯罪も多く暴かれてきておりますので、そう言った風潮を助長することにも、もしかしたらなりかねないと思ってます。ソドムとゴモラが神に滅されたのはやはり偶然ではなかったのでしょう。もちろん、生まれつきそういう志向の方もいらっしゃいますのでそれは大事にされてくださいと言いたいですが、決してこれは通常の性癖志向のマジョリティを分断するものではないということです。

しかし素人の欲求や性癖というのは歯止めが利かないものでして、そこに節度という物が無い。プロはそれを「作品というディティール」に昇華する能力を持っているのですが、素人は往々にしてただやりたいことを振り回して終わります。M女史からしたら竹宮さんが自分の理想を形にしてくれたとしたらそれこそ無上の喜びではあったでしょう。ただ、それは気をつけないと「トーシローの自●行為」という枠から出られない危うさも常に孕みます。

風と木の詩は私も20代の頃読みましたが、正直、そこに萩尾さんのような高い精神性はなかったし、ひたすらドロドロしてエロいシーンが延々と続く、ある種エグいものでした。少年同士の性行為シーンがあったのはびっくりしましたが、逆にこれ「ズリネタ?」という意図があったのかと思ったほどです。何かこうひたすら劣情を刺激していくような退廃さを感じました。
ジルベールの最後にしてもあれだけ引っ張ったにしてはあっさりと見放されたような残酷さで、何やら読後感はあまり良くなかった。多分必死に何か追求されようとしたのでしょうけど、もっと奥の深いものが読みたかった。どこまでM女史の意向が入っていたのか気になるところです。

一方萩尾さんの作品の登場人物ははそう言った肉欲的なエロスは感じません。
苦手というよりは、そういう方向性がご本人の中に元々ないのです。早くからM女史の危うさを見切っていたこともあってか萩尾さんは彼女の影響を受けていません。(というか本人自覚ないけどもう次元というかレベルが違うし)
それが萩尾さんの作品の高潔さを引き出していると思います。たまたま男の子同士でキスしちゃった!くらいが私にとっては爽やかでいいです。

それくらいお二人の作品の方向性は違いますし、トーマの心臓の原案などはごく初期の原案の頃からM女史の批評をずっと受けてたわけですから。何もかも言いがかりであったのは当然だし、純粋な萩尾さんがひたすら混乱したのも無理はないでしょうね。もっとも彼女が天才すぎるために嫉妬という感情がわからなかったという話もありますが、第一線で切った張ったする人はそこまで気にしてられないのも事実です。嫉妬する方もだったらそれを羨望に変えて、自分がもっと深い努力をすればいい。それが出来なかっただけではないでしょうか。
長嶋茂雄さんに「嫉妬って何ですか?」って聞いたら多分「わかりません」と帰ってくると思います。まさしく映画「アマデウス」のモーツァルトとサリエリの関係を彷彿とさせます。

結果として何があっても全面的に距離を置いた萩尾さんのスタンスは創作者としては全くもって正しいです。色々いう人もいますが、それは創作という危うく繊細な作業を知らないからです。「”自分の作品”を守るために私は曲げない」というのは全くその通りで、クリエーターは自分の作品を生み出すことに全責任を取り、人生を捧げなければならないのです。その厳しさは並大抵のものではないことは、多くの人に知ってほしいと思います。

ただ…..初期作品を読み返して、キャベツ畑とか、聖霊狩りとか、3人組よく出てくるんですよね。本当に。これは改めて切なくなってきます。
多分これが「十年目の毬絵」につながっていったんだなと思いました。
「なんで3人でいられなかっただろう」….というのはとっても胸に刺さります。
竹宮さんがモデルであるところのキャベツ畑のミス・ジョージィの「春の光が一番似合ってたころ….. 二人で手を繋いでどこまでも野辺をかけていったのよ…..」という回想のくだりで私は鼻がツーンとしました。


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