そして、今日も違和感と生きていく

「違和感」と聞いて、最初に思い出すのは中学生の頃の出来事。

私はどうしても友達と地元の花火大会に行きたかった。
地方都市の一人娘として生まれ落ち、当人たちは過保護ではないと思っているが、傍から見るとそれは多少過保護なのではないかと思えるような(と私は思っている)、どちらかというと保守的な家庭で育てられた私は「恐らく駄目だと言われるだろうな」と内心諦めつつも、母親に対して「花火大会に行きたいんだけど」と伝えてみた。

案の定回答は、「駄目。」

まあそうだろうな、と思いつつ
諦めの悪い私は「なんで駄目なの?」と母に問うてみる。

次に返ってきた回答は、
「だって、危ないから。」

「なんで危ないの?」
『女の子だから。』
「女の子だから危ないの?」
『そう、危ないから駄目。』
「何が危ないの?なんで女の子だと危ないの?」
『駄目なものは駄目。』

散々駄々をこねたが、結局花火大会には行けなかった。
これが、私の違和感の黎明期である。

へーそうですか、女の子だから危ないんですか
そんなの納得できなくない??なんで???

今振り返ると、母の気持ちも分からなくはない。
まあ色々と思うことはあったのだと思う。

でもあの頃の私は「駄目なものは駄目」なんて
そんな雑な論理で納得なんてできなくて、永遠にぶすくれたままだった。

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大人になって(大人になれているのかは疑問だが)
そんな無邪気な違和感はどれだけ声を上げていただろう、とふと思った。

「なんでこうしないといけないの?」
「本当にこれって正しいの?」

「周りがこうだからこういう物の見方をしなければ」と、
無意識にそう思っていたことは、完全になかったと言い切れるだろうか?

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「素直さ」と「従順さ」という言葉がある。
この二つの言葉の境界線は果てしなく曖昧だが、私の解釈は以下の通りである。

従順でいる、ということは自分の違和感を殺してしまうことだと思う。
自分の中で声を上げている違和感の口を塞いで、窒息死させてしまうこと。
そして自分の中の社会性に洋服を着せて、何食わぬ顔で歩き出させること。

素直でいる、ということは違和感と生きていくことだと思う。
自分の中で一生懸命何かを訴えている違和感の声に耳を傾けて、手を繋いで一緒に歩いていくこと。
外の世界で誰かが何かを訴えていたら一旦そちらにも耳を傾けて、自分の中の違和感ときちんと話し合って今後の方針を決めていくこと。

振り返ると、どうしても花火大会に行きたかった中学生の私は従順ではなかったが素直でもなかった。

きっと私は母の意見もよく聞いた上で、上手に伝えなければいけなかったのだ。
違和感と良く話し合った上で、「今の私ではその説明では納得ができないから、きちんと説明してほしい」と。

違和感を飼いならさず、かと言っておざなりにもせず、
手を取って仲良くちょうどいいバランスで生きていきたい。

そして、違和感と上手く付き合えるようになったら
それを周りに伝えるだけではなく、自分でその違和感を解決できるようになるともっといい。

やわらかくたくましく、まっすぐに。
無意識に違和感を殺してしまっているかもしれない自分への自戒も込めて。


違和感くんをいい感じで外に出すことを世間ではアサーションと言うそうなのだが、その話は機会があればまた今度。

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