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平等とは、一番の不平等である

この言葉を聞くと、どのように思うのだろうか。
わたしは「不平等なんて不公平だ。人はみな平等であるべきだ。」
そう思っていた。

平等は一番の不平等である。
これはどういう意味なのだろうか。

例えば、ある仕事においてAさんは目をみはる働きをしていたとする。自分の業務外のことも進んで取り組み、組織のことを考え、顧客のためにより良い価値提供を、と行動に写している。
対してBさんが、同じ時間労働に従事しているにも関わらず、何かとサボり、1時間で終えられるはずの業務を3時間かけてこなし、頼まれたことも十分にこなせていない。
AさんとBさんを労働時間という観点で切り取ると、同じ時間だけ働いているのであるし、同じ賃金を与えるのが平等であるのだろう。平等とは、偏りや差別が無く、みな等しいことを指す。

さて、これは平等なのだろうか?
もちろん、AさんにもBさんにも個別の事情があるはずだ。
Aさんが頑張れる理由も、Bさんが頑張れない理由もあるのだろう。
それは今の職場環境に起因するのかもしれないし、あるいはもっと前の、その人のパーソナリティーにまで遡ることができるかもしれない。

平等が、偏りがなくみな等しく接することを意味するのであれば、真の平等など存在するのだろうか?平等とは、どんな状態なのだろう?

ひとりひとりの個別の事情(前向きな事情も後ろ向きな事情もあるかもしれないが)を考慮すると「みんな同じ」という平等は実現されないと思う。

はっきり言おう、この世は不平等だ。

ただ、健全な不平等と、不健全な不平等のどちらもが存在していると思う。

健全だと捉えるか、不健全だと罰するかは個人の価値観に委ねられる部分が大きい。

個別の事情でなかなか頑張れない人を支援する手助けは必要だと思うが、頑張っている人に対して機会と報酬が与えられることが「ずるい」「贔屓されている」と非難されがちなのはなぜだろう。
努力したことがきちんと認められる、これもある種の平等であるはずなのに。

不健全な不平等(定義が難しいが、各々の価値観に委ねて想像してもらって構わない)は、正しい方向に導く努力をして然るべきだとおもう(そもそも正しい方向とは、という議論もある)が、健全な不平等が正しく認められる社会は平等であると思う。

天は人の上に人を作らず、ただ、そこからの成長によって上下は決まらなくとも佇んでいる道は違うよね、ということは起こるはず。上下という序列はなくとも、違いというグラデーションは横に広がっているはずなのだ。

究極の平等とはそれらを見ようとせず一律に与えるものではなく、そのグラデーションを認めた上で最適化、個別化していくものだと思う。ただ、すべての人やものに対して個別化を行うのは難しいので、そこはジレンマが発生するところだ。平等を意識すると、どこかで必ず不平等が起こる。

不平等だ!と怒ることは簡単だけれど、じゃあ何を持って平等と言えるのか?という反証は自分の中で持っておかなければいけないね。





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