雑記「今は自由があって」@2020/03/08
どうした俺
朝は7時に目覚め、雨が降っていた。今日はなんだか気持ちがすぐれない。そんな日もある。line通知がくる。
「本日は雨天のため廃品回収は中止になりました」
今日は廃品回収だった。ボクは他の人にlineで連絡を回してから、布団の中でぼーっとしていた。やっぱり今日は気持ちが沈んでいる。寝起きに気分がすぐれないというのは毎度のことだ。
いつからだろう
笑顔が無くなったのは。日々の生活に張りが無くなり笑顔もなくなった。愛想笑いはするが、腹の底から楽しみ笑う事はなくなった。そして泣くことも出来なくなった。感情が薄れている。喜怒哀楽がなくなってしまったようだ。ボクは生きているのだろうか?そんな気さえする。
別に死んでも生きてもどっちだっていい
そんな感覚に襲われるのは、仕事で利用者さんを迎えにマンション7階まで。廊下を歩いていると下に小さく車が並んでいる。
ここで飛び降りたらどんなにラクだろうか・・・
とか本気で考えている自分がいて、いっそっと思いながらも、その一瞬を想像して怖くなる。なにに怖がっているのかわからない。非現実的な事を一瞬でも思う自分に怖いのか、それとも死ぬことが怖いのか、それとも正常でない自分の精神が怖いのか。どちらにしろボクは少しオカシイと自覚しはじめた。
新型コロナウイルスのニュースで
ジムでの感染がニュースになっていた。別に感染したところで死のうと生きようと今のボクには関係ない。と本気で思っていたりする。だからボクは少しオカシイのだ。だけどそれが妙にリアルで生きている実感があったりもする。今まで感じたことのない「生きる」という刹那。地球の年齢に比べれば一瞬の瞬きだ。その一瞬を駆け抜けるのに今を生きているのか?
今を生きる
感情を揺さぶる事だらけの人生に少し疲れ気味だが、ボクらしいのだと思えばボクらしいのかなとも思う。だけどそれは今のように人生落ち目の時だからこそ感じられる事だと思っている。
この半年は貴重な時間だろう
人生のターニングポイントにいる。強烈に感じる人生の分かれ道。選択権のない別れ道だ。思えばボクの人生に「選択」といったものがあっただろうか?なかったような気がする。長男が死んで養子に入る時点で決められた人生を歩む事になったのだ。当時はその事さえわからなかったが・・・。
自由の象徴
ボクには自由はなかったのだと思うが、妻と子どもたちだけはボクの自由だった。結婚だけがボクの意思で決めた事だったからだ。だからこそその自由を守り生きてきた。彼女、彼らがボクの自由の象徴だったからだ。
幸せを感じた時間
ボクは仕事90%で、家庭が10%、そして妻からの反発50%で暮らしてきたのだと思う。仕事をすることで家庭を守る事が出来ると考えていたからだ。それが正しいのか間違っているかはおいておいて、たぶんひとりよがりだったのだろうが、お金が無ければ守れるものも守れないと思っていたのは事実だ。
自由がなかったトラウマ
なのかもしれない。お金があって自由を買えたならとどれだけ思っただろう。悔しい気持ちを何度思っただろう。遺産相続を金で解決出来たらとどれだけ思っただろうか。だけどこれに屈をするとボクの自由が守れない。大切な家族を守れない。仕事を守れない。そう思って耐えに耐えてきた。そして解決にこぎつけた。非常に辛い作業だったが、守るべきものの為に行った行動だったから、ボク自身はしんどいといった感覚はなかった。それだけ必死だったのだ。
今は自由があって・・・
何をしていいのか実際のところわからない。今まで無かった自由。あればどれだけ良かっただろうかと憧れてきた自由。その自由が今は与えられている。自由な時間、自由な決断、自由な意思、自由な・・・。
片翼の天使
自由を手にして守るべきものを失った。なんのために生きればいいのだろう。なんのために頑張ればいいのだろう。自由を手にしたが飛び立つ翼がない。今はくるくると回りながら奈落の底へ落ちてゆく。その深さや計り知れない。
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