ChatGPTの勢いが止まりません。公開からわずか5日で100万ユーザー、2カ月待たずに1億人超という凄まじさ。100万ユーザー獲得にはネトフリで3年半、インスタでも2カ月半というから、凄さが分かります。AIに新聞記事が書けるか、というのは既に愚問かもしれませんが、部員と楽しみながらいろいろ試しています。そこでたどり着いた一つの結論がありました。
プレスリリースを基に記事を生成する
静岡おでん祭
まず、一覧性がいいのでOpenAIのPlaygroundから試してみました。使わせてもらったプレスリリースは日本最大級!全国のご当地おでんが大集結!「静岡おでん祭 2023」開催です。
こんな感じでプレスリリースをコピペして貼り付けるだけです。プロンプト(指示文)も単純に「以下の情報を基に新聞の告知記事を書いてください。『だ・である』調。300文字以内で」としました。※文字制限はあまり守ってもらえません。ただ、なんとなく短めとか、長めに書いてほしい、ということは伝わりますので、一応指定します。
生成された記事は次の通り。
最後に主観が入ってしまっていますが、これは手動でも取れるし、指示を改めて取ることもできるので、たいした問題ではないでしょう。プレスリリースに主催者コメントがあれば、それを反映してもらうこともできそうです。
次に、告知記事ではなく、開催後を想定して記事を生成します。つまり取材したと想定します。生成された記事は次の通り。
カギかっこ(人のコメント)がないのが物足りませんが、事実の正確性はさておき、一見すると十分に新聞記事になっている印象を受けます。
騎馬武者行列@浜松まつり
次に、自治体のプレスリリースを試してみます。浜松市の大河ドラマ「どうする家康」騎馬武者行列@浜松まつりの開催を使わせてもらいました。
生成された記事は次の通り。
津波避難訓練の告知
次に避難訓練の実施について。以下は報道発表文。
生成された記事は次の通り。
ごみ減量ガイドブックの配布
ごみ減量ガイドブックの配布について。以下は報道発表文。
生成された記事は次の通り。
市長定例会見の議事録を基に要点を報告する
首長の定例記者会見の文字起こしはどこの自治体でも掲載されていますが、浜松市で試してみます。次の一場面をChatGPTで試しました。
普通の記事形式で生成できることは分かったので、今度は記事形式ではなく、要点を抜き出してもらいます。
「表形式で」などと指示すると、うまい具合に表形式でまとめてくれます。将来的に正確性が担保されるようになれば、上司や同僚と共有するためのテープ起こしから解消され、AIによって自動的に要点だけをシェアできるようになるかもしれません。というより、確実にそういう時代になりますね。
新聞記者はこれからどうしたらいいのか
APIで普及は加速の一途
このように、AIで新聞記事が書ける可能性は十分過ぎるほどあると分かりますし、実際、正確性に配慮した上で既に使っている新聞社もあります。
米OpenAIは3月2日(日本時間)に最新のChatGPT API(gpt-3.5-turbo-0301)を公開したばかりですが、そのAPI(※アプリケーション・プログラミング・インターフェース=これを使うことで外部の誰でもChatGPTを自分のアプリやサービスと連携させることができる)を使って早くもさまざまなアプリやサービスが登場しています。AIの普及は文字通り加速の一途をたどっていくと容易に予想されます。近い将来普及する次世代GPTは、正確性がある程度担保されるようになるとも言われており、プレスリリースを出したい側がフォームに必要事項を入力するだけで正確な新聞記事が自動生成されるサービスも早晩、登場するのは間違いないでしょう。
紙媒体の新たな使命
記事が自動生成される時代、新聞社や新聞記者はどうすればいいでしょうか。不安な記者も多いと思いますが、個人的には、AIの普及に伴ってデジタルの世界がより深く、より広くなるほど、紙媒体の存在意義は高まっていくと思っています。巨大な輪転機や戸別配達網を持っている、あえて言いますが「オールドメディア」は、デジタルの海に浮かぶ貴重な島のような存在になりうるかもしれません。それとも、海の家のような存在かもしれません。熾烈な差別化競争が繰り広げられているデジタルの大海とは違って、海面に顔を出せばすぐに目に入り、たまには上陸して羽を休めることもできます。
結論として
そのときに海の家のプロフェッショナルとして温かいラーメンや美味しい丼で人々を迎えることができるか―。やはりつまるところ、新聞記者はデジタルという言葉に必要以上に惑わされず、これまで通り、しっかりと目的意識を持った上で、足で稼ぐ泥臭い取材ができるかが問われることになると思います。今後AIが生成した記事を目にする機会はさらに増えていき、しかもたいていはAIに対する賞賛や驚きを伴う文脈で目にすることになるでしょう。ただ、そこで記者が自信を失う必要は全くない。記事を書くこと自体は、決して目的ではなく、手段に過ぎないからです。