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短編小説『風邪っぴきシレーヌ』前編

※もだもだ青春幼馴染 ※うちよそ小説です

 七月某日、試験明け。突き抜けるような青空の校庭に蝉の合唱が降り注ぐ。夏休みを控えた校舎から、吹奏楽部のトランペットが漏れ聞こえてくる傍ら、金曜日の放課後にあるまじき憂鬱を背負った俺は、特大のデッキブラシを手にプールサイドの掃除に励んでいた。
「っし、こんなもんか……?」
 力任せに擦った甲斐あってか、ビニルの床はなかなかにツルツルとよく滑る。この輝きには後光を浴びた坊さんのハゲとて敵うまい。会心の出来に満足した俺はひと息ついて腰に手を当てた。かくも勤勉な生徒はこの学校中探したって見つかりっこないだろう。見下ろせば文字通り水色のプールが日差しに輝き、馬鹿みたいなこの暑さをあざ笑うかのようにゆらめいている。水の層をかき分けて底まで潜り込めばどんなにか涼しいだろうと思うと飛び込んでみたい気もするが、明日からは大会の練習だ。いずれそんな悠長なことも言っていられなくなるだろう。
「あ〜、あっつ……」
 さんさんと陽の照る猛暑日に、この仕事量はさすがに酷だ。一年分の藻と塵と穢れを払うのに、たった一人の生徒をこき使う顧問の人の心を失ったとしか思えない所業が恨めしい。だが、俺にはその悪行を糾弾できないのっぴきならない理由があった。



 遡ること十日前。放課後の部室に入った俺を、ピコピコとポップな電子音が出迎えた。
「よー高松」
「おー、何してんの」
「見りゃわかんだろ。ゲーム。最新作。」
 雑に片手をあげる同輩の手の中には、確かに小型の携帯ゲーム機が収まっている。なんて度胸だ。俺は舌を巻いた。顧問に見つかりでもしたら大目玉確定の違反物、それもワンチャン来月の大会まで出場停止になるかもしれない超一級品だ。
「見つかっても知らねー」
 ロッカーに鞄をぶち込んで制服を脱ぎ始めた俺に、奴は肩をすくめてゲーム機を睨んだ。付かず離れず、特段仲がいいわけでもなく、かといって仲が悪いわけでもない、いわば腐れ縁だ。これ以上助言をしてやる義理もない。
 塩素臭い湿気た空気を、扇風機のこれまたぬるい風が払っていく。次第に人が増えていく部室の真ん中で、ひっきりなしに鳴るピコピコ音は瞬く間に衆目を集め始めた。当然だ。
「あ〜くそっ」
 何度目か分からないゲームオーバ―の音。随分と手こずっているらしい。
「うっわ、むずそ〜」
「ドンマイドンマイ!」
「どうやったらこのステージ勝てんだよ……」
「誰か詳しいやついねーの」
 その言葉に、奴の背後にすずなりになった部員たちの視線が一斉にこちらを向いた。嘘だろ。あれよあれよという間に期待に満ちた眼差しが俺の顔に突き刺さる。
「おい高松!」
「無理、パス」
「まだ何も言ってないじゃねーか!」
「言わなくてもわかんだよ!」
 食い気味に拒絶の意を表明した俺に、一斉にブーイングが上がった。
「付き合いわりーな」
「言ってろ。塚本に見つかったらどーすんだよ。出場停止だけはまじで勘弁」
 満を辞して出された顧問の名に、愛すべき馬鹿共がぐっと言葉に詰まる。
「そりゃあ、そうだけど……」
「そういうわけ。ほら、さっさと筋トレ行こーぜ」
 結果が分かりきった愚行に手を出すのは、その文字通り愚か者だけだ。馬鹿馬鹿しい要求をあっさり論破したことに満足した俺は制服をロッカーに投げ込んだ。だが、勝利のニケはそう簡単に俺に微笑む気はなかったらしい。そのままドアに向かおうとした俺の背後で再びニューゲームの起動音が響いた。
「ふーん、逃げんのか。」
「……は?」
 振り返ると、同輩がニヤニヤとゲーム機を軽く振っている。
「お前、このシリーズの戦闘、下手くそだもんな」
 殴りたくなるほど嫌な笑みだ。

 数十秒後、俺は同輩のゲーム機を手に、観衆の声援を受けながら液晶を睨みつけていた。
「すげー、ワンキルかよ」
「まあな。で、誰が下手くそだって?」
 褒められて悪い気がする人類はそういない。軽く鼻を鳴らしてゲーム機を握り直す。ポップなデザインに反して容赦のない敵の猛攻。手汗で滑る指先で踏ん張りながら進んでいく俺に周囲の熱気は高まっていく。
「そこだ! 右!」
「避けろ避けろ避けろ」
「行け!」
「っおい、後ろ!」
 ──だから、来るべき異変に誰も気付かなかったのも当然と言うべきだろう。俺らの背後、戸口の陰に現れたその影は、気付かぬ間に真後ろに忍び寄り、ぬっと画面を覗き込んだ。
「た〜かぁま〜つぅ〜?」
 ちゅどーん。軽快な音と共に浮かび上がるコンティニュ―の文字。絶体絶命、ゲームオーバー。ギギギ、と擬音がつきそうなほど恐る恐る振り返った俺を、顧問が爽やかな笑顔で見下ろしていた。



 かくして、俺は究極の二択を迫られた。すなわち、夏の大会の出場停止か、はたまたシーズン前のプール掃除か。当然、俺が後者を選ばざるを得なかったのは言うまでもない。一方のゲームを持ち込んだ張本人はといえば、いち早く危機を察知して無関係のフリをしやがったおかげで反省文だけで済んでいる。裏切り者め。
「だりぃ……」
 俺はモップを放り出してばったりとその場に倒れ込んだ。そろそろ腕の筋肉も限界だ。普段の騒がしさはどこへやら、しんと静まり返った水面を見ていると、どこか不思議な心地さえする。
「……っし、もう帰るか!」
 流石にここまでやれば顧問も満足するだろう。と言うよりこれ以上は無理だ。日も昇りきらない試験後すぐに取り掛かって、早七時間は経過している。さっさと職員室に報告に行って帰ろうと、首筋に伝う汗を乱暴に拭ったその時、いやという程耳に馴染んだ声がのんびりと俺を呼ばわった。

「あれ、英司くんだ〜」
「ん?」
 振り向くと、向こう岸のフェンスから真っ白な人影が身を乗り出して大きく手を振っている。
「あ、マリア」
今日も呑気な幼馴染の登場に目を瞠れば、ふふっとくしゃくしゃの笑顔で返されて思わず息が詰まる。ふわふわとウェーブのかかった色素の薄い髪が、青い空によく映えて眩しかった。
「英司くん、今日は部活?」
 そんな俺の内心を知ってか知らずか、ぴょこり、屈託のない笑顔が、申し訳程度の高さしかないフェンス越しに元気よく跳ねる。
「いや、なんつーかその……野暮用っていうか」
 まさか罰則掃除中だとは口が裂けても言えない。
「ふぅん……」
「そう言うお前は?」
 部活だろうか、軽い気持ちで尋ねた俺に、マリアは思案し、そして屈託のない笑顔で言い放った。
「恋愛成就の儀式中!」
「れっ……!?」
 予想を遥か斜め上に横切る回答に俺は絶句した。
なぜ、何のために? 白昼堂々校庭でするまじないにどんな効果があると言うのだろう。というか相手は誰だ、聞いてねぇ。
「えーっと……」
 言い淀む俺に、マリアはくすくす笑いながらフェンスを超えてプールサイドに降り立った。眼前にぐい、と華奢なこぶしが突き出される。ぱっと開かれた手のひらの上には、何やら折り畳まれた紙切れがあった。
「……ここにね、相手の名前があるの。」
 勿体つけて彼女は紙切れを光に翳す。知りたいようでいて、知りたくない気持ちが空回って、警戒するように眺めてしまったのは不可抗力だ。
「……だれだよ、それ」
 わずかに慄きながらジトっとした視線を送れば、悪戯っぽい笑みが返ってきた。
「あててみて?」
 何なんだ一体。俺は痺れを切らし、恐る恐る紙に向かって手を伸ばした。
「あ、だめだよ英司くん! 人に見せちゃだめなの!」
「無理ゲーだろ!」
遠ざかる紙。マリアは途端にむくれた顔をする。ぷく、と膨らました頬にまつ毛の影が掛かって、視線が泳いだ。
 蝉の合唱の狭間、わずかな風に水面がさざめく音がよく聞こえた。
「……後輩ちゃんがね、どうしてもその人と夏休み前に付き合いたいんだって。それでね、」
私、いいよって言っちゃった。妙に静かな声でマリアは言った。そのらしくなさに、不思議と胸がざわつく。だが、それよりも。
「……ん?」
 俺は首を捻った。どうも話が見えない。呆気に取られる俺をよそに、マリアは唇を尖らせながら紙切れを指先で弄ぶ。
「ちょ、待て。後輩?」
「うん」
「で、お前が……なに、その……儀式する側?」
「そう! あれ、言ってなかったっけ?」
「言ってねぇよ……」
 なんだ。後輩か。きょとんと首を傾げるマリアに俺はがっくりと脱力した。無駄に焦って馬鹿みてぇじゃん。だが、一方のマリアは煮え切らない態度のまま、プールサイドを歩き始めた。
「そう。まあとにかく、そうなんだけど……」
 ちろり、伺うような視線がこちらに向けられる。
「なに?」
「……なんでもないもん」
 妙だった。恋バナが大好物のこいつのことだ。いつもなら喜び勇んで友人の手伝いをし、あまつさえ俺をも巻き込もうとしてくるところだ。そもそも、この紙切れが恋愛成就の儀式とやらに関わってるって話も、本当かどうか怪しい。
「やっぱなんかお前、隠してるだろ」
 マリアの肩が跳ね上がる。
「隠してないもん!」
「ほんとかぁ?」
「ほんと!」
視線がじっとかち合う。じりじり後退するマリアの目が明らかに揺らいだ。絵に描いたような挙動不審っぷりに疑念が確信に変わる。
「やっぱ見して」
「えっやだ」
 案の定、マリアはさっと紙を隠した。
「そりゃねえだろ話振っといて!」
「やなもんはやだもん!」
「っだから! 気になるって……」
 ドタバタと騒々しい音が青空に吸い込まれていく。俺はめいっぱい腕を伸ばして紙を取り上げようとした。
「だめーっ!」
 どん、と軽い衝撃が上半身を襲う。マリアに突き飛ばされたのだと、一拍遅れて気が付いた。だが俺の視界はそのまま、目の前のマリアの方がずるりと姿勢を崩す。
「……ん?」
「……へっ?」
 目を見開いた俺の指先を掠め、マリアが背中から落ちていく。しまった、ここはプールサイド、しかも磨きたてのツルツルだ。懸命に伸ばした手も虚しく、マリアはきょとんと間抜けな顔のまま俺を見た。刹那、どぼん。派手な水音が響く。

 俺は言葉を失った。いつだったか、こんな景色を見た事がある気がした。水の中を揺蕩う色素の薄い髪。溢れそうなほど大きく見開かれた赤い瞳。日暮れの色が混じった縹色の水に、ピンク色のリボンが沈んでいく。血の気が下がり世界の音が遠ざかって、暗くなる視界の中で静かに溺れる姿があの日、人魚みたいに見えたんだ。
「っおい、マリア!」
 迷っている暇はなかった。汗ばんだジャージが肌にまとわりつく。俺はそのまま水中に飛び込んだ。何もかもがスローモーションのように見えて、不思議と頭は冷静だった。水の層をかき分けた手に、もがいたマリアの腕が当たる。指先で手繰り寄せて浮上しようとすれば、全身にのしかかる水の重さが堪えて驚く。決して離さないように掴んだ腕がちぎれそうなほど痛んだ。
「おい!」
 ざば、と水面をかき分けるように細い体を引き上げた俺は、軽くマリアをゆすぶった。
「大丈夫かよ、息しろ息!」
「っへぶぁ!?」
マリアは詰めていた息をブワッっと吐き出し、大きく目を見開くと、続け様にごほごほと咳き込んだ。無事だ。どっと安堵が押し寄せて全身の力が抜ける。塩素混じりの飛沫がひどく目に染みた。
「び、びっくりした……」
「……ごめん」
 肝が冷えた。口籠もりながら謝ると、マリアはくちゅんとくしゃみをして「さむい」と呟いた。もうとっくに日暮れだった。
「ん、帰るぞ」
真っ赤に染まりながら次第に色を失っていく空の下、冷たい水から互いの体を引き上げて、どちらからともなく苦笑する。びしょ濡れだ。
「英司くんてば、すごいカッコ」
「お前こそ」
けらけらと笑い声を上げる鼻をつまんでやれば、彼女は小さく悲鳴をあげた。
「やだ、鼻ぺちゃんこになっちゃう!」
「それ俺の前で言う?」
くすくす笑い合いながら、真っ黒になった服の裾を絞ると、幾分か南風の肌寒さはマシになったような気がした。だが、体操着とジャージの俺は軽傷でも、溺れたマリアの方は着替えがない。もう掃除をしている場合なんかじゃなかった。
「うし。家帰って、シャワー浴びるか」
「……うん!」
マリアはそう言うと、よれて溶けかかった例の紙切れを、ぐちゃぐちゃに握りつぶしてポケットに突っ込んだ。
「それ、良いのかよ」
「うん。もう、どうでも良くなっちゃった。」

 それから二人で自転車に乗って、うちに帰った。自前の自転車を一台、校門まで引いてきた俺に、マリアはびっくりしたように瞬きをして、にんまりと笑った。
「あ、英司くんいけないんだー」
「大丈夫、バレねーし」
「でもあぶないでしょ!」
「ジルもしてるし平気平気」
「あれはバイクだもん!」
いつも通りの軽口の応酬。それでも、ぎゅっと躊躇いなくしがみついてくる背後の体温に、大事に至らなかったことを俺は心から神に感謝しながらペダルを踏んだ。まあ、神なんか信じてないけれど、少なくとも何かに感謝したことには違いなかった。
「それ、着てろよ」
信号待ちの四つ辻はビル風が涼しい。何度目かわからないくしゃみの音に、俺はジャージの上を放った。水没を免れた分、少しはマシなはずだ。たとえそれが少々汗臭い気がする代物であったとしても、だ。
 もぞもぞと背後で袖を通す気配がして、それからくんくんと鼻を鳴らす音。
「おい、嗅ぐなよ」
「んー、英司くんちの匂い」
「えぇ……」
汗臭いと言われなかったことに安堵するべきか、俺んちの匂いってなんだよ、とか。それにしても何だか妙に居た堪れない気がするのは気のせいか。
「やっぱ返して」
「やだ」
「代わりにブレザーやるから!」
 えも言われぬ罪悪感に思わず背後を振り返れば、すっぽりと俺のジャージに顔を埋めたマリアが悪い笑みを浮かべている。
「やだもん」
「なんでだよ」
「だって、もうあったかくなってきちゃってるし……」
ぬくぬくと鼻をうごめかすその姿に、居た堪れなさが加速する。俺は慌ててジャージの裾を引っ張った。
「ぬ、脱げ!」
「えっやだ!」
「なんで!」
「えっち!!!」
「だからなんでだよ!」
 ぎゃいぎゃい騒ぐ声が宵の空に吸い込まれ、二人分の影帽子がアスファルトに溶けるように消えていく。信号機から流れ出すとおりゃんせのメロディに、俺はジャージを取り上げるのを諦めて、再びペダルを踏み込んだ。背後のマリアが、そっと小さくため息をつく。
「……せっかく、英司くんが貸してくれたもん。」
そして、体温が上がる。

 それが昨日のことだ。

続く

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