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視覚が取り除かれた世界とは!『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗)

走り高跳びはダンスと同じ要領で、身体に染み込ませた動作を再現するようにイメージのバーを跳んでいる。

寿司は香りがないから回転寿司では、ロシアンルーレットのようにあえて楽しんでみる。

これらは目の見えない人の世界のとらえ方の一例。驚きと発見があっておもしろく読みました!

『人は見た目が9割』なんてタイトルの本がありましたが、実際に人間が外界から得る情報の8〜9割は視覚に依存しているようです。

では、その特権的な位置付けの視覚という感覚を取り除いてみると、身体は世界をどのようにとらえるのか?

美学の研究者である著者が「世界の別の顔」を取材やワークショップを通じてまとめた一冊。

当たり前とされるフレームをいったん外し、ユクスキュルの「環世界」のように異なる世界を追体験することができると思います。

すごいでなく、おもしろい

まず好感を持ったのが著者のスタンスです。ちがいをフラットに、ライトに「おもしろがる」ことから新しい価値を発見できるのではないか。

たとえば冒頭の驚きのような感覚に対して「すごい」だと、その前に「〜なのに」が付くニュアンスなんです。対等じゃない。

だから目線を同じくして、その上でちがいを純粋におもしろがって、もう一つの世界を知ることから始めよう。

単なる「欠如」でない

たとえに挙がったのが3本脚の椅子と4本脚椅子。脚の数が異なれば重心、バランスのとり方が変わってきます。

それはすなわち受け手のおいて、同じ「情報」でも置かれる文脈が変わることで「意味」も変化する

目に見えない人にとって富士山や月は、頭の中で三次元でとらえている。それは三次元だから当然といえばそうなのだけど、見える人は普段から絵に慣れているので二次元的にとらえがち。

ちがいに「よしあし」はないんです。でも、ちがいが明確になって初めて明るみになる事柄ってたしかに存在している。

春琴抄の佐助

思い出したのは『春琴抄』の佐助です。大やけどを負った春琴の後を追うように、自らの目を刺してふたりだけの世界を選びました。

視界はぼんやりしているけれど、隣には春琴がいて、精神でつながっている。けっして彼らにとって視界は「欠如」ではなく、もう一つのふたりしか見えない師弟愛の世界だった。

というわけで以上です!


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