川柳連作「OD寿司」暮田真名に見る「俳諧」と「現代川柳」との連続性

 「俳句」「短歌」は正岡子規の革新によってそれまでの「俳諧」「和歌」から近代文芸へと生まれ変わった。川柳は子規による革新を受けること無く、俳諧が俳句革新により解体された以降も俳諧そのものであったが川柳もまた自ら(一部の川柳作家により)近代文芸への道を歩み始めた。それは俳句=発句では無いように川柳=平句では無くなることであった。
 詩性川柳と言われる現代川柳の一部の作品からは俳諧との連続性を感じず寧ろ現代詩との親和性を感じてきた(現代連句も俳諧の後継文芸では無く現代詩との親和性が高いのだがこれは別稿で書く予定)。最早、「川柳」と名乗る必要すら無い程に現代川柳は俳諧から飛躍したとも言える。「川柳とは何か?」というジャンル的命題からも開放されたかのようにも思える。
 暮田真名の句集『補遺』批評会で柳本々々氏の「現代川柳とは言葉の交換である。」に現代川柳に対して靄がかかっていた部分が晴れることとなった。そこで取り上げられた句集中の連作「OD寿司」より一部抜粋する。
 スコールに打たれていても寿司がいい
 寿司として流星群は許せない
 音楽史上で繰り返される寿司
 良い寿司は関節がよく曲がるんだ
 孵卵器の寿司を見てから帰ります
 「寿司だからさみしくないよ」「本当に?」
「寿司」を詩語として「寿司」と「寿司以外の措辞」との関係性で読み解く俳句的鑑賞は成立しない。どの句も「寿司」を寿司以外の別の単語に置き換えれば意味が通ることになる(交換の文芸)。俳句における詩語(季語を含む)は作者と読者との共通イメージ(本意、本情)により鑑賞が成立する。この連作の「寿司」には暮田のイメージする寿司でしかない。否、暮田は自身の寿司のイメージから作句したわけでは無いだろう、寿司以外の措辞で寿司のイメージを次々の変質させているのだ。前衛俳句で散々試みられたシュールリアリズムや象徴主義の影響と同様と前衛川柳を捉えてきたことを大いに反省せねばならない。「詩客」に以前に書いた「俳句時評 第113回 「言葉を生かす俳諧師」と「言葉を殺す俳人」」https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/1cbf32ae3ec25be6fd5ed5e1a900a5d6を参照して欲しい。言葉は使われることにより意味をなす、使われ方が異なれば別の意味となる。俳諧とは正しくその座における言葉の最善の意味を見出すことであった。即ち連作「OD寿司」は俳諧精神そのものではないか。
 今まで「難解」の一言で切り捨ててきた前衛川柳をもう一度読み直してみるつもりである。


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