オリンピックといじめと小山田圭吾。

今朝、小山田圭吾さんがオリンピック、パラリンピックの開会式での作曲担当であることが発表された。

この発表に対して、彼が過去に雑誌「ロッキングオン・ジャパン」や「クイックジャパン」紙上で過去にしていたいじめの内容や、そのいじめの標的などについて語っていたことから、そのことを理由に起用したことを非難する声や、使用楽曲の変更を求める声が見られた。このことについての私の意見である。

クイックジャパン誌上のインタビューについて。

このことに関して、その真偽についても議論されているものであるが、私は日本の道徳教育において、いじめっ子の心理がどのようなものであるか表す重要な資料として、ある程度テクノロジーが進んだとしても使える資料とも思う。ただ、被害当事者にはこの内容は強烈なフラッシュバックをもたらす可能性があり注意すべきものでもあるが。

私はいじめ被害当事者でもあるが、いじめを扱う教育において、被害者目線の物や、その卑劣さや残酷さにばかりフォーカスしたものが扱われていることには、私は疑問しか持たない。いじめという行為の加害者側の目線なしに、いじめ加害者である卑劣さや、その行為の安易さ、そしてだれでもそのような行為を行ってしまう可能性に対する自覚を育てることは難しいと感じる。

いじめという問題を語る上で、加害者や加担者における被害者という存在の軽薄さと、その被害者の精神面また学生期である場合にその精神成長面で与える強い影響は、どちらも多くの人が知るべき内容だと考える。実際に、客観的に見て強い加害意識を感じる内容であっても、加害者当人にはストレス発散やゲームの一環であったり、組織として団結するための手段でもあり、被害者への尊重意識など全く持って軽薄なものであることが多い。それ故に強いフラッシュバックが起こる危険性も承知の上で、このような資料を読むことで、そのような加害者の軽薄さを知ってもらって、被害者に逃げることを促しやすくなればと思ってしまう。

ただ、このようなことを意見を持っているからとはいえ、私は彼のいじめをしたという事実は許す気持ちはないし、このことに対して怒りを覚える人に対しても、その気持ちは尊重されるべきではあると思う。しかしながら、恐らくテクノロジーの進歩によって、いじめと称される行為の卑劣さや隠匿性はより増しているだろうし、このような形の記事が今後世に出されることはほとんどないことも思う。それ故に五輪の起用に関しては問題視することも当然だと思うが、このような人間性だからと言って、大手メディアに少しでも名前が出ることすら許されなくなった場合に、このような大事な資料ですら、見向き去れなくなることへの危惧は覚えてしまう。

音楽性と人間性をどう折り合いをつければよいのだろうか。

人間性と音楽性、このことは特に現代においては大きく騒動になることは多い。今回の件の前にも、ヴァイオリン奏者の高嶋ちさ子さんが、子供の叱り方について、ゲームをやめない子供に対してそのゲーム機を破壊するという行為で、虐待的な行為ではないかと言われたし、友人からもらったゲーム機を壊すことのできる人間性を疑うという騒動があった。最近で言えば、バンドRADWINPSのボーカル野田洋次郎さんが、SNS上でオリンピックと、このコロナ禍におけるエンタメの扱いについて、気持ちを吐露した直後に、夜通し飲み会をしていたことをスクープされ炎上したともあった。また「ゲス不倫」というワードを出せば、当時の騒動や、当事者の人間性などについてメディアで騒動になったことを覚えてらっしゃる方も多いと思う。

さて、そんなことがあったとしても、騒動を起こした当事者たちの音楽性に関しては否定する気にはなれない。酷い偏見と想像をこめて言えば、私はRADWINOSの音楽自体は好きなので、彼が例えば日本と日本人至上主義者になって、隣国の国家や民族を否定するようになったとしても、少なくともそれまでにリリースされた音楽は聴き続けると思う。

ただ、人間性と音楽は別だとは思う私であっても、人間性の部分を強く拒否感を持ってしまって、聴くことができないアーティストがいる、その一人が大森靖子さんだ。2017年のあるイベントで起こった騒動での彼女のブログやSNS上での立ち回り、そしてその一番の被害者である人が謝罪せねばならなかったことや、勝手な行動によって別イベントの主催者にも迷惑が掛かってしまったこともあり、音楽はいいとは思えても、一切聞けないままで、彼女のプロジェクトに関しても曲を聴くことができなかったりもする。

とはいえ、安易に音楽性と人間性を絡めて強く糾弾することに関しては、私自身は全く賛同することはできない。どんな音楽でも、その音楽を好む人を糾弾することは私は避けたいとも思うのだ。

オリンピックで彼の楽曲が使われるということ。

実際に問題となることについて考えたいとも思う。私としては、実際にそのようなインタビュー記事がある人間を、そのバックグラウンドの知識の少ない人や、その作曲者への知識がない人にも名が知れる方法ともなるこのような起用は、私はあまり好ましいものだとは思わない。

その理由の一つは、現代における強いキャンセルカルチャーによって、彼だけではなく、彼の存在によってビジネスしている人すべてに世界中から糾弾されることへの危惧だ。彼の存在を絶対的な観測範囲外にしたい人たちにとっては、彼に少しでも加担する人達は悪となり、正義の達成のためにはそのすべてが糾弾されてしまう可能性もある。しかしながら私はそのような正義の暴走も許したくないもののひとつだ、法曹でもない個人の正義のために存在を消される必要のある人はいないと思う。

更には、名目上オリンピックやパラリンピックは「平和の祭典」である。その平和の祭典において、他人に対する心身への暴力を反省する素振りなく語っている人間を起用するということは、その差別や暴力の否定という観点から、組織委員会や東京都、政府にまでその任命責任が問われることは仕方ないことである。だからこそ、海外での知名度だけでない部分を委員会が精査すべきであったことは間違いない。

確かに演出するうえでの楽曲ピースとして、彼が作る楽曲はそれを補う存在であるかもしれない。しかしながら、その世間的反応を想像できずに、演出に起用してしまったことは、私は委員会の愚とも言われて仕方ないと思う。

最後にいじめという行為と正義に思うこと。

私はいじめという行為や、そのような軽薄な意識で人が傷つけられていることは、許されるべきことではないとは思う。しかしながら、その軽薄な意識と同等に、各々が持つ正義の感覚によって、過剰に他人を糾弾するという行為もいじめと同等に卑劣なる行為に成り得ることであると言いたい。あなた方の正義というものは必ずしも正当なのであろうか。

正義という快楽は人間を軽薄に暴力や差別へと導く。そして暴力や差別という意識がない軽薄なものであるゆえに、正義への快楽へと溺れていく。これに関しては私も気を付けなければならないと思っていることである。私自身は東アジア、東南アジア人種への帰属意識が高く、更には最も誇らしいと思える存在でもある。しかしながら、その意識の裏返しに、ヨーロッパやアフリカ、インドや中東の人種への卑下や差別意識が強くなることはあってはならないからだ。

また、日本のサブカルチャー好きにおける、「小山田圭吾はそういう人間だから」という意識も、正直あまり良くないものだったのではと思ってしまう。私にとってはとても重要な資料である内容でも、その内容をも含めて「人間性だから」と見ないで不問として、通り過ぎていたことは、私を含めて恥ずべき事だったのかもしれないとも思う。

小山田圭吾という一人の人間の、そのインタビューひとつを通してだけでも、今日でも沢山学ばせてくれるものが大きいと私は感じる。だからこそ、いじめと称される行為について今日ですら沢山の人が真正面からその問題を考えることができないことを実感して、可哀想や卑劣であるという内容だけではない、様々な資料を読んだり見たりして扱うことによって、よっていじめと呼ばれる行為が深刻とならないような社会づくりをしていってほしいと願っている。


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