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「トランス女性は女性です」に思うこと。

こんにちは、コロナ禍によって翻弄された一年も終わりを迎えようとしていますね。私はこの一年でタイに渡航し、手術を受けて、法的な性別を男性から女性に変えました。そんな私が今思う「トランス女性は女性です」という価値観や社会運動について、わりと批判的な意見が多くなるかとは思いますが、私の見解を書いていきたいと思います。

いくら身体的な治療をしていても、体格的な筋力が強いことは否めない。

現在私は、戸籍と同じ女性として仕事をしている。また、手術前までは女性として就労したことはなかった。(上司等から女性と扱う配慮を打診されたことはあった)しかしながら、私自身が男女で仕事上の扱いの違いが生じることに関してはあまり好ましいとは思っていなかった。

そんな私が、性別によって力仕事の分担があるという価値観の職場に行って、進んで力仕事に参加したりすることや、日常的なちょっとした作業においても、女性なのに力があると驚かれたり、時にはそういう場面で顔を立てることができなかった男性スタッフから嫌な表情や言葉を受けることもある。
しかしながら、身長体格等が似ている女性スタッフと比べても、やはり差ははっきりと感じるし、それ故に驚かれたりすることもよくある。これは私が社会的な性別を変えたことによって明確に感じた違いだ。

それ故に私は思う。男性としては体格が小さく筋力も弱かった私ですら、女性として生きる上では、多くの人の想定する範疇よりも大きく上回る力がある。つまり骨格的な強度が違うということが、女性ホルモンによる治療を2年以上している20代後半の私でも明らかに筋力の差を生むということは、より多く存在するであろう私よりも体格の大きいトランス女性と呼ばれる人は、もっと普通の女性との筋力の差があってもおかしくないということであると思う。
その差について考えながら、「トランス女性は女性です」という価値観と、トランス女性は脅威であるという主張について、見解を話していきたいと思う。

ジェンダーという概念だけで一般女性の権利が侵害されていいのか。

先ほど、トランス女性は身体的な治療をしていたとしても、通常の女性と比べて筋力的に上回ってしまうケースが多いだろうと話した。また、トランス女性である以上は生理周期等による体調変化等も起きない。正直これは私には背けたい現実でもあるが、周期的な体調変化に左右されることがないことはトランス女性の利点にもなりうると思う。身体的な機能は男性と遜色ない部分も大きいのだから。
その点から考えて、トランス女性に女性と同等の権利を与えるべきかということを考えていきたいと思う。

まずスポーツ大会等の参加に関して、これに関しては未治療のトランス女性の参加は言語道断であるし、法律上男性であるならば参加を認めないことは仕方ないことだと思う。その上で法律上女性であるトランス女性に関しても、競技性の公平性に欠けてしまうので、認められないことに関して人権問題とは私は考えないし、そもそもスポーツ人である自覚があるのならば、自分が競技経験や実績のあるスポーツで、体格や身体機能に差のある女性の大会に出場することは自粛すべきであると思う。
次に女子大や女子高への入学について、女子大に関しては、現役、浪人等の若年層であれば、法的な変更前であっても認めることはありだと思う。しかしながら、既卒での再入学に関しては私は少なくとも手術済みであることを条件にすべきだと私は考える。次に女子高に関して、これは全日制ならば原則現役生でなければ認めないという対応でいいと思うし、そもそも各種学校において、原則全く認めないという対応でも私は問題ないと思う。

トランス女性に女性と同等の権利を認められないことは、女性の安全観点から見て仕方ないことだと思う。

さて、ここからが本題である。更衣室、トイレ、浴場等の問題についてはないて行きたいと思う。

会員制等ではないスポーツジムや浴場においては、更衣室や浴室等について、見た目で判断をするという対応になるとは思うのだが、見た目的に明らかに女性と判断できない場合においては、診断書や身分証等の提示があったとしても女性スペースの使用を拒否することは私は問題ないと考えるし、それを人権侵害という問題とするのならば、女性の身体安全権を侵害する行為として私は強く抗議したいとも思う。
次に職場や会員制の施設に関して、これに関してはオペ前であるならば、更衣室やトイレの利用がある施設に関しては、許可が得られている範囲で使うべきであると思う。またもちろんオペ後であっても、トランス女性の権利として使えるという意識ではなく、女性の安全権利の中に入れさせてもらっているという意識で利用すべきなのではないかとも思う。

最後に公共施設のトイレ等について、ホルモン治療やオペ前であっても、診断書があれば利用ができるという主張も多く見受けられるが、正直私は診断書があるから女子トイレに入る権利があるという見解は言語道断だと思う。更衣室、浴場、化粧室、授乳室等はあくまで女性の身体的安全を担保するためのものであるので、その安全を侵害する行為はたとえ診断書を持っていようともあってはならないことであるし、トランス女性だから認められるべき権利とは全く違うものなのである。
故に利用することを制限することはあまりできないものではあるが、それを権利として主張することは私は間違ってることだと思う、診断書を持っていようが、たとえオペ済みであろうが、利用に関して何か問題が発生するようなら、利用を控えるべきだと思う。

トランス女性が、自分たちが持つ「女性」の価値観って何なんだろう。

私は、それぞれのトランス女性が思う「女性」の価値観が、本当に女性を尊重できているのかということにも私は疑問に思う。
女性であるというだけで男性社員から優しくしてもらえると言ったり、女性であるから肉体的に大変な作業を回避させてもらえるというものだったり、女性だから様々なオシャレができるという価値観もある。でもこれ、女性を尊重できている価値観だろうか。正直、女性が得をしていて、男性は虐げられているという一辺倒な価値観も多く見受けられて、すごく気分がいいと思えなかったこともある。

そもそもの話、それぞれのトランス女性はなんでトランスする必要があるのだろうか、確かに身体的な違和感、社会的な不都合、服装的な趣味、色々な理由があるかもしれない。けれども、それが女性に変わったからと言って楽になるとも限らないし、体の機能が違うから、苦楽も比較することは不可能であると思う。
それなのに自分が思う「女性」を目指すためにトランスして、自らを「女性」と名乗ることで女性の安全や安心を侵害したり、ジェンダーロールに嫌悪感を持つ人たちに対して「女性」を示すということは矛盾であると思うし、もはや男性による女性ジェンダーの押し付けにもならないかとも思ってしまう。

そう思うとわたしは「トランス女性は女性です」という運動や思想について、当事者でありながらすごく疑問に思ってしまうのである。

女性を尊重して共存しあえない存在が、「女性」とされる違和感。

私は今まで何人もの当事者ともお話させていただいたりしたが、正直女性そのものをちゃんと尊重できていると思う当事者はほとんどいなかった。男は身体を売ることができないけど、女であれば体を売って楽に稼ぐことができるという、セックスワークをする人への明らかなヘイトも何度も聞いたりした。
そんな「女性」という存在に対してヘイトの感情を大きく持ちながら、自身もトランスしていて、権利主張として「女性」を名乗っている例も本当に多く見てきた。また、少しでもトランス女性への否定意見を見かければ、それをヘイトだと決めつけて、女性に対して敵意を向けて、尊重すべき存在ではないという意見も聞いてきた。

私は思う、普通に生きている沢山の女性に対して尊重もできず、敵意や蔑視を向けて、ヘイト的な感情を持つ人たちを「女性」として認めなければならないのだろうか。体力面で上回るゆえに、身体的に男性的であることを少しでも恐怖に思うことは「差別」なのだろうか。私はこの文章を読んでくださっている人に聞きたいと思うことである。
私の話をするならば、法的な扱いは今現在女性であるので、事情を知らない周囲の方々からは私のことを女性だと思ってもらっているが、正直私は自ら「女性」であることを主義主張はできない。法的な特例で女性と認めてもらっているだけで、身体的な苦しみとかは全く違うし、実際に周囲から結婚や出産に関するプレッシャーを受けることも容易な人たちに対して、不本意ではあるものの本質的な問題にはならない私とはやっぱり違うと思ってしまう。だからこそ私は自分のことを強く「女性」であるとは言えないのだ。

私は「トランス女性は女性です」には賛同できない。

なぜ当事者でありながら私は「トランス女性は女性です」という言葉に賛同できないのか。それはそもそも現在生きている女性の安全な生存権を守ることと、トランスジェンダーという価値観によってジェンダー規範が再び強化されてしまうことへの危惧だ。

正直に思う。男性であろうと女性であろうと、私は過剰にジェンダー規範に縛られたりすることは必要ないと思っている。しかしながら、現代のトランスジェンダリズムは、ジェンダー規範の解消というよりは、ジェンダー規範の再固定をしているようにしか思えない。特にトランス女性向けの産業に至っては、女性らしいくなるためという理由で、ジェンダーの価値観を再固定化させているようなビジネスも多く見受けられる。
私は、このようなトランス向け産業に感化された人たちが、自分たちを「女性」としてその安全圏を侵害して、より解消されるべきジェンダー規範やバイアスを強化されることは快く思わない。そうなってしまってはもはや男性による女性への抑圧だし、ジェンダーバイアスによる生き辛さは解消されないと思う。

そもそもジェンダーが女性だと思うならば「女性」なのだろうか、たとえ女性に危害や恐怖を与えようとも「女性」と主張するならばそんな男性も女性なのだろうか、そういうことを考えてしまう。

ジェンダーってそんなにも大事なのだろうか。

LGBTやトランスジェンダーという価値観とジェンダーフリーという価値観が広まっていく中で、私は身体的な性別というものがどんどん蔑ろにされている気がするのだ。

私はジェンダーというものに対してはあまりこだわりがないので、法的に男性であった間は、職務上は男性として働いていた。そんな私が多くのトランスジェンダー活動家に対して思うことが、女子トイレや女子更衣室、女性用浴室を使うことの何が「ジェンダー」であるのかと問いたいのだ。
確かに性分化疾患や後天的なホルモン異常等で苦しんでいる方も多くいることは知っている。しかしながら、そうではない上に身体的な違和感を持たない人が、「ジェンダー」を理由に身体的な安全のために分離された空間を侵害していいのだろうか、ということを私は思う。

トランスジェンダーでレズビアンを自称する大学教授が国政選挙に出馬したが、その際に身体的な移行、治療等を望まない自分が女子トイレや女湯を利用することを、女性から喜ばしいと思われる行為だと語ったとき、私はひどく嫌悪感を覚えた。トランス女性であるならば、レズビアンであるならば、少なくとも女性を尊重する気持ちを持つべきと思っているのに、なぜこんなにも侮辱的なことを言えたのだろうかと思った。

LGBTという言葉の中で暴走していくトランスジェンダリズム

LGBTという言葉は今日の日本では知らない人のほうが少なくなっていると思う、恐らく当事者であろう私は「B」のバイセクシャルと「T」のトランスジェンダーとして分類されてしまうのだと思う。しかしながら私はこのLGBTと言われる言葉は嫌いだ。明確にシスヘテロと分離するための言葉のようにも思えてしまう。

さて、そんなLBGT運動やトランスジェンダー運動の中で、トランス女性によるシス女性への侮辱的な言動が、私は好ましく思えないということを語らせていただいた。またトランス女性関する活動家の方々の中に「レズビアンがトランス女性を受け入れないことは差別である」とか「これからの女性はペニスに慣れてもらうしかない」という言説まで生まれている
正直に思う、ジェンダーという概念でジェンダーバイアスを再固定化させる上に、女性の安全に対する権利まで奪って、男性による女性抑圧を強くさせる気なのかと。ここまでトランスジェンダー運動が暴走してしまっていることに私は困惑と恐怖すら覚える。

誰しもがパートナーを選ぶ権利はあるし、レズビアンが身体的男性を受け入れられないことは、当然守られるべき人格権であると思う。性自認という理由だけで、女性への性的関係を欲し、男性の身体を女性に示していくことの何がレズビアンなのだろうか、シスヘテロ男性との違いとは何になるのだろうか。
男性としての加害性に身体的嫌悪を持って、断種ともなる手術を受けた私には、男性としての加害性をも女性示していくことのことの何が「女性」で、それに対して異を唱えることすら「差別」であるのか全く理解ができない。はっきりと言っておこうと思う、それを「差別」とするならばそれは「男性による差別的な女性抑圧」であると。

私は「ジェンダー」と「身体的な性別」の分離がしっかりとされることを望みたい。

今まで「ジェンダー」と「身体的な性別」の話を沢山してきたが、私は文化的や語学的な意味でのジェンダーはあまり否定したくない。ジェンダーバイアス的な表現を解消していこうという動きが現代にあるが、私は基本的には反対したいと思う。極論を言うと「男の子」とか「女の子」であったりするような、ジェンダー的な表現が入っている言葉自体は、私は好ましくないと思わない。

私には好きなバンドがある。なぜそのバンドが好きになったかというと、もちろん歌詞や曲のセンスがいいこともあるが、私は彼らが作る「男の子」な世界観がとても好きだった。そんな彼らにもし女性やトランス男性がいたら好きになっていなかっただろうか、それはわからない、しかしながら、もしいたとしても、その世界観は傷つけられることはなかったと思う。
これ同じように、トランス女性向けのビジネスをされている方が、「女の子は魔法」という言葉を売り文句にしている。私はこれ自体は否定したくはないと思う。なぜならば「女の子」になりたい女性も尊重されてほしいからだ。これは「ジェンダー」というものが長年文化として生き続けてしまったが故に生まれたものであると思うからである。

しかしながら「女の子」だから「女性」であるかは全く違うことであると思うし、「女の子」になりたい存在であったということで、身体的な男性が女性の安全を侵害していいものだとは全く思わない。トランスパーソンという自覚があるならば、やはり私はトランスする性別への敬意や尊重がなければならないと思う。

最後に私はジェンダーという価値観に対する願い。

私はジェンダーバイアスというものが嫌いだ。女性は男性を引き立てなければならないという価値観は大嫌いだし、男性が自分が尊重されてないことに対する女性への反感も本当に嫌いだ。また職務による男女差別というものもなくなるべきものだと思う。
しかしながら身体的な男女差はどうしても埋められないし、それだからこそ法的な性別を変更したトランスパーソンである私が、自分のことを女性とは思えないし、女性と自称したくないという理由でもある。

だからこそ思う、トランスジェンダーという価値観はジェンダーバイアスを解消するためのものにはならない。場合によってはジェンダーバイアスを再構築してしまうものにもなると思う。
私は当然そのようなことは望まないし、そのためにもトランスパーソンにはトランスする性別への敬意や尊重を持っていてほしいと思う。

しかしながら、私は文化としてのジェンダーは否定したくない。それがあったことによってはぐくまれた文化というものは計り知れないし、その文化自体は尊重されていいことであると思う。

だからこそ私はここではっきりと言いたい。

「トランス女性は女性です」という言葉、運動には私は反対いたします。


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