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人は、10代の時手に入らなかったものを、いつまでも追うことがあるらしい。

皆さんはコロナ禍も1年以上となり、どのように日常をお過ごしだろうか。

私はこの疫病禍で、タイドラマを見るようになった。皆さんは今日本でも話題になっているタイドラマについて知っているだろうか。
日本で今メディア等でプッシュされているタイドラマと言えば、タイのCS放送局制作によるボーイスラブ(BL)作品が現在有名となっていることはご存じの方も多いだろうとは思う。

そんなBL作品を見ながら、ふと私が思ってしまったことについてのお話。

私って、曲がりなりにも男の子として生きていたんだよね?

私は今法律的にも社会的にも女性として生きていると思っている。ただ、望んで女性として生きたいかと言われたら、正直肯定はできないくらいの感覚でもある。けれども、タイに行って望んで性別適合手術を受けたのも事実だ。

なんで女性として生きたくないかの根源は明確だ。男性として学生時代に生きてきた中で、男性として社会人として生きていた中で、女性として生きることの不利な面と不都合を見てきたし、男性であるからこそ明確に認識できるレベルで優遇されてきた経験は大きい。
けれども、そんな中でも性別への違和感は持っていたし、自分が男性であること、男性の身体であることは否定したい、けれども、男性という利点は大きすぎる。そんなことを思ったりもしていた。

しかしながら、特に学生時代に関しては、選んだ部活や学科によって、ほとんど男友達はいなく、周囲も女子ばかりだし、友達も女友達ばかりだったりもした。それ故に、男の子としての青春をした時う感覚が一切ない。
けれども確かに、あの時男子中学生だったし、男子高校生だったし、中退してしまったとはいえ男子大学生でもあった。確かにそういう形で生きてきたけど、今こうなってしまったからなのか、想像と違うからなのか、そう生きてきた感覚がほとんど持てない。

たぶん今生きている以上はそんなこと必要ないことなのに、どうしても想像する男子学生としての青春を味わえなかったことが、男子学生として生きていたはずという現実と比べてしまい、勿体なく感じてしまうのだ。

トランスしながら、男性として働いていて。

さて、こんなことはいつから思っていたのかはわからない。けれどもそういうことを思っていること、これを明確に認識しだしたのは手術をする1年ほど前からだったと思う。
それは医療的な治療をはじめて1年ほどたった時だ、たまたま仕事で同世代や少し下の世代の男の子と接することが増えたときだった。

一応当時は男性として働いていた、そしてその男の子たちからも一応男性として扱ってもらっていた。その時に、すごく彼らが羨ましく思えてきてしまった。生理などで身体の不調に悩まされることもないし、女性だからとセクハラもない。
そしてなによりも、それによって男の子ってこんなに自由で楽しそうな生き物なんだという感覚が芽生えた。身体の仕組みによって、社会から縛られることのない、私も同じ価値を持てるはずだったのではと。そんなくだらないことで泣いたりもした。

けれども、様々な違和感や、私の生きてきた環境を考えると、それは私にできただろうか、そんなことを思っていたりもした。

タイのBLドラマ作品を見て。

そんな私は、昨年2月にタイに渡航して、手術を受けた。そんなタイという国が本当に楽しくて幸せで、私は虜になろうとしていた。
そんな私がタイという国が忘れられずにいる中で、ドラマ「2gether」によって日本でも大きくなったタイドラマ人気、Twitterトレンドのタイ文字「คั่นกู」を見て、気になって私も「タイ沼」の住人になってしまった。

ただ、創作の世界であるはずなのに、オペ前から思っていた「男の子って羨ましい」の気持ちが再燃してしまう原因ともなってしまった。

男の子の仲良しグループで様々な他愛のない会話する姿に、自分が男性として生きていた事実を重ねて、こういう創作で表現されるようなものに、私もなれたのだろうかと思ってしまった。
そして何よりも、その可能性をほぼ完全に自分から閉ざしてしまったことへの後悔はすごく大きくなっていった。

この気持ちは、ないものねだりなのだろうか。

私と同じトランス当事者で、男性から女性に移行した人の多くは、女の子が羨ましかったとか、男の子らしいことを強要されたので、女の子らしいことにあこがれが強かったとか、そういうことをメディアでも取り上げられるし、実際に当事者からも聞いたりした。
しかしながら私はと言うと、幼少期から小学校にかけては、比較的男女両方の遊びに参加していた記憶があるし、昔からぬいぐるみが好きで買い与えてもらっていたし、ティーン向けの雑誌を参考にして、姉と一緒に雑誌に載っているような部屋の内装にしていたりなど、男の子で生きながらにして、自発的に「女の子らしい」と言われることを好きでやっていたし、それが容認されていたと思う。だからこそ、そういうことへの憧れというものがほとんどない。

ただ、中学になってから、逆に「男の子らしい」という世界から自ら隔絶されようとしてしまったためか、学生世代や若い時間での「男の子として青春や人生、楽しみ」というものに対して、治療開始前から知らないうちに憧れを持ってしまっていたし、特に治療開始前の2年間は如実にその憧れに向かって行動していたと思う。そしてそれを治療開始してから強く認識してしまった。そしてそれを「形だけ男の子として生きていた学生生活」に重ねて、何度も胸が苦しくなっている。

これは私のないものねだりなのだろうか。

想像や創作、一般的な印象と、実際に生きている人は違う。

どれだけ本を読もうとも、どれだけ映画やドラマに感動しようとも、漫画やアニメの世界に逃げ込もうとも、実際に今日生きている人の人生がそのような世界にすべて当てはまっているとは限らない。ましてや、私が大好きなBL作品の世界なんて、大抵非現実の塊だ。
逆に言えば、「トランス女性」とされる人を題材になにか作っている人にとっては、私のような当事者は想像の範疇を大きく逸脱した存在になるとも思う。むしろ私ですら、逆に多くの創作みたいな当事者が羨ましくも思うくらいだ。

それなのに、何故憧れを強く持ってしまうのだろうか。

わからない。私にはわからない。けれども、男の子特有のバカやる感じとか、身体によって何か制限されることのない自由さだとか、男として生きるというそのこと自体が、すべてにおいて恵まれた幸せなものにすら見えてくる。その憧れは嫉妬ともなって、実際に生きている男性へとその念を持ったこともあった。

私は10代の頃、男の子の青春を味わうどころか、そのような光景すら見てこなかった。

先ほども申し上げた通り、私は中学の頃から、部活仲間や友人などが女子ばかりで、男友達と言える人なんて本当にわずかしかいなかった。
そればかりか高校は学科自体がほとんど男子のいない学科に進んでしまったため、自分から会って話す機会を作らない限りは、同世代の男子とすら全く接しなくなってしまった。けれども、同じ時期に自分のセクシュアリティの部分を強く自覚し始めたこともあって、私が生きる道を考えたら、これで普通なんだという気持ちもあった。そして20歳くらいまでは、学校やバイトも含めてそんな環境にいることを選んできた。

けれども、そのような環境から職場が男性の多い環境になったり、ライブハウスなどで男友達も増えるようになって、「男性として生きるってすごく楽しそうだな」と思うことが無意識に増えていたと感じる。

そして、偶然なのであるが、今年、2020年に放送されたタイのドラマ作品「The Shipper」という作品を見たときに、その作品の主人公が男性の世界と想像していたものと、現実との相違で苦しむ姿に、自分が見えてこなかったものがあったことに強く気づかされた。私が持っている男性への羨望や憧れは、そういう世界が見えなかったからこそ、強く持つようになってしまったのではないかとも思うようになった。

あの頃手に入らなかったことを、私はいつまでも根に持ってこれからも生きていくのだろう。

性同一性障害や、トランスジェンダーという言葉が一般的になるにつれて、性別をトランスしたことに対する後悔や、それによる苦しみというものは、今でも多くの情報が出ているし、時代が進めばもっともっと多種多様な後悔や苦しみが知られるようにもなると思う。
トランスする人の、持っている違和感の種類も、その違和感の根源も、多種多様であるが故に、むしろ身体医療的な治療や、社会的性別をどうにかすることだけではなく、その根源を見つめてその人個人の問題となる部分を解決していくことになっていってくれればと思う。

また、私自身も、外科的手術を含めた身体的治療には全く後悔はないものの、法的な性別も社会的な性別も変えてしまったことは、自分の中に持っている感情も含めて強い後悔は持っている。けれども、その根源を考えてみたときに、今まで見てきてたことによって嫌いだった女性社会の部分を、ただただその当事者として生きて、やっぱり嫌なことには変わりないと実感しているだけだ。
ただ、男性として普通に男社会になじんだとして、似たようなことが無いと言えるかなんて誰も保証はしてくれない。だから私がトランスしたことは明らかな失敗だなんて言い切れるはずもない。

それでも、やっぱり私は一応身体は男性に生まれたから、それなら10代の頃に男の子として青春を味わって、その時だけの輝きだったとしても、男の子の中で幸せにいられたならばと、ずっと思い続けるのだと思う。それは私が手に入らなかったし、見てこなかったことであるから。

そんな私は、ネットマガジンサイトを読んでいた時に、「人間というものは、10代の時に手に入らなかったものをいつまでも追うことがよくある」というような記事を見たときに、とても感銘を受けた。私が手に入らなかったものだからこそ、どうしようもないことなのだと。
そしてこの記事を読んでいる皆さんは、自分の心に聞いてみて、10代の頃に手に入らなかったものを、今でも追い続けていることはないだろうか。もしあるのならば、私だけでも、その追っていることだけは恥ずかしくないことだって、そう言ってあげたいと思う。

そして最後に、そんなことを気づかせてくれたドラマ作品「The Shipper」の主題歌を、皆さんにも聞いてもらえたら、そう思います。



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