多面体コンテンツ
もう何年前からになるか。
情報伝達の手法、スピード、拡がりかた。
10年、20年前からは考えられないレベルで情報は様々な形で拡がる。信憑性、正確性はお構い無しに拡がる。
そんな中往々にして起こる事。
Aのコンテンツに興味を持ったBがAを作りたい!
宣伝? 趣味? 野次馬?
この際理由は大きな問題にはまずならないと思います。前に書きましたが年配の反骨者でない限り一つのコンテンツに新しく興味を持って頂くことは嬉しい限り、まず歓迎されます。
しかし、このような経緯において上記とは別に問題になってしまう事が…。
リスペクトがない。
古くさい。
面白くない。
このような意見、異議申し立てを度々目にします(これも情報伝達の速さ故かも)。
何故こんな問題が起きるのか、もちろん気にしないという人もいますが(私も個人的に興味がない)、一つの可能性として、
BがAのコンテンツの一面、
表になっている平面しか見えておらず、他の面を知るAにとって気味が悪いと感じる。
といった事態が頻発しているのではと勝手に考えております。
サイコロの1だけみて2~6を無視している。
旅行ガイドを読んだだけで実際にその土地を知り尽くした感覚でいる。
こんな感じでしょうか。
どんな物でも初めは一つの点から線に、そこから平面が出来上がり「コンテンツ」が誕生します。
でも、それで終わりではありません。そこから更に折り紙の如く平面は折り畳まれ、凹凸も陰影も出来上がり、全面を見て知り尽くすのは困難を極めていきます。
そこで「コンテンツ」が完成する事はまずなく、さらに複雑怪奇に多面化していくのでしょう。
もし完成仕切った「コンテンツ」があるとしたらそれは
文化の終焉
だと私は思っております。
基本「コンテンツ」に完成はなく、時がたつにつれ更に多面化していくと思います。
しかしそれは見てもらえる面が増え、間口も拡がるチャンスとも私は考えています。
だからこそ、平面からコンテンツを知った人、平面しか見ずにコンテンツ全てを非難する人には沢山の面を知って貰いたい、見て欲しい
そう願うばかりです。
であるからにして、
コンテンツに対する意見も肯定、否定ともに「多面的」であって欲しい
と願っています。
どちらかの意見ばかり採用するイエスマンのみになると「コンテンツ」の多面化は止まり文化も止まってしまうでしょう。
ただ、「非難」ではなく「批判」。
「多様性」という枠組みでつま弾きにせず「多面的」に考える。
書いてる私も完璧には出来ないですし、モノづくりの世界を知らない若年寄の小言に過ぎないですが、先人が未来の世代に好きなコンテンツを嫌みなく語り継ぐ為に必要な心構えかもしれません。
「多面的」に見れば自ずと「チャンス」も訪れると信じています。
長文失礼致しました。
コンテンツコンテンツ書きすぎた。
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