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絶対的で不変なもの。

「絶対的」と「相対的」が生み出すもの

子供の頃から「宇宙戦艦ヤマト」とか「銀河鉄道999」とか、「ギャラクティカ」のテレビシリーズとかが大好きで、今でもアベンジャーズシリーズに心を躍らせる”宇宙好き”です(笑)

アインシュタインによる「相対的時間」の概念が大好き過ぎて、それからずっと物事を「相対的」であるのか「絶対的」であるのかと捉えるところがあります。「相対的」時間の概念とは、2人の観察者がいるとき、互いの「相対的」な速度差により、または重力場に対して異なる状態にあることによって、2人が測定した経過時間に差が出る(時間の進み方が異なる)という考え方です。

相対性理論が生まれる前は、「宇宙の端から端まで一様に時間が流れている」というニュートンの"絶対時間"が常識とされていました。時間は不変で絶対という考え方。しかし、アインシュタインが「光の速さが常に一定で不変」であることを発見したことで、時間に対するパラダイムは大きく変わることになります。特殊相対性理論は、「光の速さ絶対理論」と言い換えることができます。つまり、"絶対的"なものは光の速さだけだということ。それ以外は、すべて相対的に変化するものであるということ。「時間」も例外ではない。アインシュタインは、今まで絶対的とされていた「時間」は、どこからなにを計測するかによって1秒の感じ方が変わる"相対的"なものであるとしたのです。それが、特殊相対性理論です。

いや〜、わかるような、わからないような...w。この感覚が面白い。

「相対的」なのか「絶対的」なのか?

「相対的」とは、対象となるものを何かと比較して生まれる価値であり、「絶対的」とはそもそも他のものと比較できないぐらいに価値があるということです。「相対的に少ない」という使い方をすると、「他と比べて少ない」という意味になり「絶対的に少ない」という使い方をすると「他と比べようもないほど少ない」という意味になります。つまり、 何をもって「相対的」なのか「絶対的」なのかと考えることの前提は、「比較する対象があるか・ないか」ということなのです。

いくつか例題を考えてみます。

オリンピックで準優勝して悔しくて泣いている選手にとっての「絶対的」とは、世界No.1であるということです。そのために全ての自由を犠牲にして、苦しい練習を重ねてきたわけですから、2位という成績は彼らにとっては屈辱と後悔に満ち溢れています。しかし、その様子をテレビで見ていた観客は、涙の理由(彼らの努力)を知ってるから感動します。「相対的」に見れば、世界で2番目という成績は誇るべき素晴らしいことです。

犯罪を犯して刑務所に収監されている囚人たちにとっての「相対的」と「絶対的」とは、自由度です。極めて制限された生活の中でも、「〇〇と比べたら自分はマシだ」と「相対的に」比較対象を考えることで気持ちを紛らわせるといいます。しかし、圧倒的に自由な生活をしている我々からしたら、もちろん彼らは絶対的不自由です。人生の絶対的(不変的)自由を奪われるからこそ、犯罪抑止力にもなるのです。

地方創生における「相対的」評価の意味するもの

都道府県別統計とランキングで見る県民性」という面白いサイトを見つけました。https://todo-ran.com/t/kiji/23184

これは様々な視点でわが町自慢を「相対的」に楽しみ、「〇〇と比べたら僕らの街は幸せ」と安堵して楽しむものです。しかしながら、こうした比較遊びには「相対的」価値の前提となる「絶対的」な定義が揺らぎまくっています。僕がアインシュタインの特殊相対性理論を好きなのは、「光の速さ」を唯一無二の不変で絶対のものだと定義して、時間やその他の主観感覚を「相対的」としているところなのです。その価値観からいえば、僕はこうした都道府県の比較遊びには何の価値も見出さないのです。

よくある話にこんなものがあります。「東京は稼げる場所だけど、人間的な豊かさがない。地方の方が人生を楽しめるから地方に移住しないか」というもの。全国の地方創生系のパンフレットを見れば、表現の違いはあっても概ね同じことが書かれています。収入というわかりやすい「絶対的」(に見える)価値を比較軸として、地方には「おいしい食」「職住隣接の移動時間の短さ」「環境の良さ」といった全く別の価値を示して、相対的に地方の生活の方が豊かだとする考え方(表現)です。

僕が昔からこうした比較に違和感があるのは、本来あるべき唯一無二の絶対的で不変なものを無視して、他人(自治体)が勝手な解釈で「安堵させたい側の理論」で無理矢理組み立てようとしているから。「地方はお金はないけど愛があるから豊かだ」「都会に出て苦労するよりも、地方にいた方が幸せ」という話は、客観的に他人が決めるものではなくて、個人の自由な考え方に基づいた其々の考え方であるべきです。だから僕は、学生はぜひ自由に外に出て、好きな場所に住んで、自分だけの絶対的価値を見つける旅をして欲しいと願っています。

誰からも支配されず「正しいことをする」

もう一度、繰り返して書きます。「相対的」とは、対象となるものを何かと比較して生まれる価値であり、「絶対的」とはそもそも他のものと比較できないぐらいに価値があるということです。アインシュタインの特殊相対性理論が素晴らしいのは、「光の速さが常に一定で不変である」という絶対的かつ不変の発見をしたからです。

僕らは人生において、ずっと誰かと比較されながら生きてきました。

もっと勉強しなさい。
もっといい大学を目指しなさい。
もっといい会社に入りなさい。
もっと男らしくありなさい。
もっと女らしくありなさい。
もっと稼がないと「負け組」になっちゃうよ。

誰もが負けないために「正しくあろう」と競いあってきましたが、ちょって立ち止まって人生を見つめ返したときに、それは本当に自分にとって幸せな生き方だったのかと不安になることがあります。「正しくある」と信じてきた未来は、本当に自分が決めた生き方なのか?そうでないのか?(脇道にそれますが、このあたりのヒーローの葛藤がアベンジャーズシリーズの醍醐味だと思っていますw)

僕はこれからの社会の特徴を「境界(壁)が溶けていくフラットな社会」だと予想しています。その時代に最も価値のあるものは何なのか?今までの常識がそうでなくなった時、僕らはどう生きていけばいいのでしょうか?

「自分らしくある」ということ

最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である。〜ダーウィン〜

ダーウィンが言ったとされる名言ですが、これを科学者である彼が言ったとすれば、それはもちろん教訓としての言葉ではなく科学的言説です。生物は厳しい生存競争の中で、”たまたま”環境変化に対応できたものが生き残っていく。科学的言説ではあるのですが、しかし僕らはこの言葉を「人としての生き方」の教訓として受け取ってきました。

今、スマートインダストリー、バイオエコノミーといった圧倒的な文明の地殻変動(第5次産業革命)が起きようとしています。その波に上手に乗って”生き残って”いく方法は、きっと素直に時代の変化を受け入れるということです。

次世代は、誰か他人が決めた「正しい場所」や「正しい働き方」に囚われず、自分がやりたいことを正直に貫くということができる世の中に生きています。これまでの「正しくあれ」とする社会の常識から解き放たれて、住んでいる場所からも解放されて、各々が信じる絶対的で不変なものを見つけ、自分にとっての「正しいこと」を自由に表現する。そんな人間らしい生き方をテクノロジーが補完するという時代がやってきます。

誰かとの比較に意味があるのか、そうでないのか?それは自分自身が決めることです。自分にとっての、自分だけの「絶対的かつ不変の発見」を求める旅、それこそがずっと変わらない人生の醍醐味だと思うのです。



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