どうせ僕たちは死んでしまうのに洗濯物をたたむ
片付けるのが得意じゃない。
正確に言うと、片付けよう、という心持ちになりにくい。
時々、一念発起して隅々まで部屋をきれいにするけれど、あっという間にシンクにはお皿が溜まり、スーパーの袋が廊下にふわり飛び出て、ベッドの脇には花粉に悩まされながら生み出したティッシュの塊が転がる。
片付けた時は気持ちがいいし、部屋をスッキリさせると心がスッキリするな、なんてことを思ったりする。本当に。
でも、また散らかってきた部屋を見つめると、「どうせまた、汚くなるのに」という考えが頭をよぎって、立ちすくしてしまう。
昨日、ソファの上に溜まった洗濯物をたたもうとして、同じ気持ちになった。
これをたたんだって、どうせまた着るし、また洗濯して、またソファの上に乗せるだけじゃん、と。
じゃあ、これをたたむことに、それに時間を費やすことに、どれだけの意味があるんだろう。
そう思うと、ぐちゃぐちゃに積み重なった洗濯物の山をただボケーっと見つめる、不良品のロボットみたいになってしまう。
たたんだ方がいい理由。片付けた方がいい理由は、いくらでも思いつく。
さっきも言ったけど、スッキリするし、それは自分の心身にとっても悪くない影響を与えるはずだ。
でも、理屈は分かっていても、一向に体は納得しない。
どうせまた汚くなるんだぞ、という言葉が、たたむことの無意味さを体内からささやき続ける。
この思考を延長していくと、「どうせ人は死ぬのに、なぜ生きているんだ」という問いにたどり着く。
極端かも知れないけれど、正直、この感覚も僕は持っている。でも同時に、それだけじゃない、とも確信している。
どうせ人は死ぬけど、生きていくんだ、と。
人生については、「死ぬのに」を「死ぬけど」と転覆させるパワーがあるのに、なぜ片付けについてはそれが生まれないのだろう。
僕は、人生ほど片付けを信じることができない。
信じたいな、とは思っているんだけどね。
いつか、どうせ僕たちは死んでしまうけど洗濯物をたたむ、と言ってみたい。
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