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ユダヤ人青年Mの話(1):野望

250年ほど前のヨーロッパの話です。
貧しい部落出身のある青年Mが古銭商を営んでいました。彼は1000年も前から中東で流通するディナール金貨が好きで、250年ほどの歴史のある神聖ローマ帝国の銀貨ターラーなどを集めては販売していました。ただ、古銭収集を好むのは一般大衆ではなく富裕層に限定されるため、貴族を顧客とする販路開拓を熱心に行いました。

その結果、ある宮殿の御用商人となることができました。取り扱う商品価値が確かなもので、しかも温和な人当たりだったので貴族層の信用を得ることに成功したのです。特に、ドイツの屈強な若者を鍛えて英国に兵士として貸し出す傭兵業を営み大儲けしているある貴族には特に気に入られ、ロンドンから振り出された為替手形を割り引いて現金化する仕事を任されました。これによって青年Mのビジネスは古銭商から銀行業に近い形へと変化していきました。

ただ青年Mはユダヤ人であったため、自由でも平等でもない社会で生きていました。ちょうど、ヨーロッパでは、神聖ローマ帝国のハプスブルク家の王位継承の内輪揉めでオーストリア各国で戦争が起こり、フランス王ルイ15世のように、退廃した王朝の行く末には何の光も見えてこない時代でした。そんなフランス革命前夜とも言える時代で、青年Mは「人当たりの良い温和な顔」とは裏腹に、差別を受ける貧しい村出身の出自を跳ね返して「お前たちを支配する側に回ってやる」と内心で決意していました。そして、彼はずっと貴族たちや一般市民を観察しながら心に抱いていたあるプランを信用できる12人の実力者に打ち明けます。それは「革命」に関するアイデアでした。

昔の人々も今の人々も、人間のとる行動は変わらずに本質的に普遍的であると彼は考えました。
暴力やテロに訴えるのが人々を支配する最良の方法だ。そしてその暴力を支える力は権力の中にこそ存在している。 (1)」と、ただ暴力で政治権力を奪うのは困難なので「リベラリズムを説くだけで良い。リベラリズムは、圧政を排し、言論・結社・宗教の自由および個人の財産権を擁護する自由主義であり、進歩主義なので、誰の耳にも心地よい。そうすれば有権者はこの思想のために自らの力や特権を手放すことになり、その放棄された力や特権をかき集めて手中に収めればいい。(2)」

その中で、青年Mは自らの立ち位置を考え、理想的な支配者層を定義して、巧妙に支配者を支配する方法を考えだします。
リバラルを売り物して権力を奪取した新たな支配者の権力を『カネの力』で奪えば良い。自由という思想を利用すれば階級闘争さえ生み出せる。そして階級闘争の勝者は必ず「我々の資金」を必要とする。既存の政府が内外の敵に破壊されようが、それは重要な問題ではなく新たな勝者は必ず『カネ』を必要とする。(3)」
道徳によって支配を行う支配者は、その地位を追われかねないので熟達した政治家とは言えない。正直ものではダメで、ありとあらゆる手段を正当化できる狡猾さや欺瞞に訴えなければならない。(4)」
そして「支配者を操る我々の権利とは、強者の論理で攻撃する権利であり、既存の秩序や規律すべてを粉砕し、既存のすべての制度を再構築する権利である。(5)」

つまり、この青年Mの考え方は、「自由・平等・博愛」という大義のもとで政権転覆と革命を起こさせ、その新たな支配者を「カネのチカラ」で思うままにコントロールして、既存の秩序や規律、文化までも破壊して再構築することにあります。

アメリカ合衆国独立(1776年)前夜でフランス革命(1789年)前夜、という時代です。神聖ローマ帝国を支配したハプスブルク家など欧州各国は南米やアフリカ、アジアなどの植民地支配で得た莫大な利益で潤いましたが、一般民衆に還元されることはなく、王権政治は腐敗し切っていました。

分をわきまえる(日本の場合)

日本では田沼意次の時代です。
江戸時代の権力者の考え方はヨーロッパ諸侯とは全く異なっていました。士農工商という階級社会ではあるものの民の暮らしを前提にしていました。それは、縄文時代の祭祀王の遺伝子であり、仏教の徳の考え方であり、儒教の道徳観に基づいて自然と形成された思想です。

端的な例としては水道があります。西の山岳地帯の伏流水が湧き出る井の頭公園から神田水道橋までの63kmもの距離を飲み水を運び、大名屋敷だけではなく市中の至る所まで井戸水を給水しました(神田上水)。江戸は海を埋め立てた土地なので普通に井戸を掘ると塩水しか出ません。そのため、上水道網を整備したのです。これは1590年の話です。

1582年に作られた英国ロンドンのロンドン橋も上水道ネットワークの一部でしたが、水運に利用されたテムズ川の水を汲み上げただけなので、船からのし尿などで汚染された水でした。パリでは上水道はなく、フランス中央部山岳地帯の貧しいオーベルニュの出稼ぎ労働者がセーヌ川の水を汲み上げ、3階建てのアパルトマンの部屋ごとに運んでいました。このオーベルニュの人々はその後、パリのカフェを始めカフェ文化の一大人脈となります。最初のカフェは1686年のことです。

江戸時代の人口増加に対して幕府は新たに多摩川の水を羽村で取水し四谷に至る43kmの玉川上水を1653年に作ります。玉川上水の高低差は92mなので平均勾配は0.2%です。すごい技術力ですよね。

このように民までも考えたインフラ整備を江戸時代初期に構築した徳川政権ですが、腐敗の刷新も1716年から30年間の徳川吉宗の時代に行っています。
田沼意次の時代はその後になります。意次は昔の教科書では「賄賂政治」のような誤った印象で記述されていますが、流通や商人の重要性を認識して政府支出を行ったことや天明の大飢饉での庶民の苦しみの幕府に向かいそう曲解されています。

田沼意次とユダヤ人青年M。同じ時代に生まれながら、それまでの為政者の思想や体制が異なることもあって、対局の考え方です。田沼意次は商業を振興して民も幕府も豊かにすることを考え、青年Mはカネのチカラで為政者を支配することを考えていたわけです。
江戸時代の商人も三井財閥の前進の越後屋や、江戸の大火に対して紀州の材木を提供した紀伊國屋文左衛門など豪商がいましたが、士農工商の身分の中で為政者を支配するなどということは考えませんでした。江戸期後半になって各藩の財政が逼迫した時に多額の貸付を行った大阪商人たちも商人道徳を逸脱することはありませんでした。

日本のほうが遥かに文明的で高度な社会構造をもっていたことが分かります。

続く


注) 青年Mの各発言の最後に()書きで数字を振っています。その意味はシリーズ最後に分かります。




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