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母のお弁当が嫌いだった話。

大学を卒業した。

あれっきりなにも書いてなかったが、無事11月には内定をいただき、この春からなんとか社会人として歩み出している。それが果たしていいことなのか、私にはわからないのだけど。
出来ることならあと10年ぐらい学生で居たいし、社会人になることへの楽しみもあまり抱けないし、実家を出て上京してみて初めてこんなに地元と家族が好きだったことに気がついてしまった。

もう2度と戻ることの出来ない列車に乗ってしまった。そんな気分だ。
平日の昼間に相席食堂をBGMに微睡むことも、父や母に悪態つきながらいつまでもお風呂に入らなかったり、友人と用もないのに2時間マクドで暇潰しすることもなくなるのか、と悲壮感でいっぱいになる。
人生うまくいけばまた出来ることかもしれない。でもそのためにはお金がいるし、生活していく術が必要。人と極端に違うことをする勇気は今のところない。20数年遊んで、あと40年以上働いて過ごして、もう一度こんな生活ができるのは人生の夏休みではなく、黄昏なのかと思うと、そんな心の準備はまだ出来ていない!!と叫びたくなる。

引っ越しの準備を手伝ってくれた父は、翌日夕方の新幹線で帰って行った。「元気でな」の初めての響きに目の奥は熱くなった。その2日後に母と別れる時、もう一緒にご飯を食べたり、買い物をしたり、小言に不貞腐れることも限られるのだと思うとどうしようもなく淋しさが込み上げた。

不思議なもので、見知らぬ土地で、ちょっとずつ人間の生活を始めると、実家の時には気にも留めなかった記憶が蘇ってくる。
今日は駅前できっと受験生だろう、参考書を片手にアルミホイルの包みを大事そうに持つ女の子がいた。あのアルミホイルのざらついた感触、金属臭い匂い、それに包まれた冷えたおにぎりを思い出して、私も母に持たされたことがよくあったなと思い出した。

母は料理をあまりしない。忙しい人なので、料理にかける時間がもともと少ないというのもあるが、あまり家で食べる料理に期待をしていない。食べたいものは外で食べればいいと思っている節があって、母が夕飯を作る日はいつも決まって同じような炒め物が出ていた。お弁当も例外ではない。そもそも人の家のお弁当を母が目にする機会はなく、私のお弁当箱はその能力を十分に発揮できていないことが多かった。冷凍の唐揚げと、レタスをちぎったもの、そしてトマトに白ごはん。ふりかけは元からかかっている。問題はその量だ。お弁当作りは、寄り弁を防ぐためにもキャパいっぱいに詰めるのが鉄則だと思う(少なくとも私はそう思っている)。しかし母は、ぎゅうぎゅうに詰めることを知らない。そのためどれだけ丁寧に運んだとしても、お弁当箱を開くと半分誰かが食べてしまったのかと思うほどにスカスカのお弁当が姿を表す。トマトと唐揚げが居心地が悪そうにコロコロと転がっている下に、水を含んでしなしなになったレタスが横たわっているのだ。

高校のとき、そんなお弁当を笑われたことがあった。当時思春期を拗らせていた私はその一件以来恥ずかしくて、可能な限り母のお弁当を避けた。月2000円だったお小遣いをやりくりして食堂やコンビニへ行き、起きられる日は家族分のお弁当を作ることで母の作るお弁当を避けていた。

今思っても、私の作るお弁当の方が寄ることはないし、見た目も味も満足する。けれど、駅前で見かけた女の子によって、母のお弁当が愛おしくてたまらなくなった。

小学校のときは塾に行くため、中学校からは毎日通学するたびに持たせてくれていたお弁当が恋しい。きっと相変わらず傾けなくても寄り弁しちゃう、物足りないお弁当が恋しい。

私が誰かにお弁当を作るときは絶対にそんなふうにはしないと思うけれど、母にもう一度持たされるのであればあのお弁当を食べたい。なんて、当時は好きになれなかった母の手作り弁当が、思いがけなく恋しくなってしまった話。

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