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誰の心にもウェルテルは居る

 ゲーテの名作古典『若きウェルテルの悩み』を読了した。これについては以前からその存在は知っていたが、いまいち手が伸びず、ずるずると先送りになっていた小説である。

 今回、友人が読むということを聞きつけて、ならば私もと読んでみることにした。

 内容はひと言でいえば「青年ウェルテルが婚約者のいる女性を好きになってしまい、許されない相手への愛に悩みまくり、ついには自殺してしまう」というものである。

 文章にしてみれば何のことはない。その内容は「自殺」というたった一つの物事に集約される。

 しかし、この小説はそのたった一つの内容をこれでもかというほど鮮明に、心の深淵までも明確に浮かび上がらせている。それが読む者の心を掴み、いつしかウェルテルという青年と自分の気持ちとが同化してしまうのだ。

 解説によれば、当時(十八世紀)の小説というのは「娯(たの)しませることと有益であること」が求められていたらしい。これに関しては、今なおそうであると私は思う。文化的進歩があろうとも、小説というものに画一的な視点を持つ者はいくらでもいるものである。

 一方でゲーテはその枠に収まることなく、決して教育的な小説ではなく、人間というものをそのままに描いたような『若きウェルテルの悩み』を執筆した。これは当時のゲーテの恋愛の経験に基づいて書かれたものだが、主人公が最終的に自殺するとあって「自殺弁護」の小説ではないかと非難もあったらしい。

 さもありなん。

 世の中には考えることに疎く、目の前の情報を単純化して受け取る者はいくらでもいる。ゲーテも当時そういった人々に悩まされたことであろう。しかし彼はあくまでも生きたし、自殺することは無かった。これはウェルテルとはっきりとした違いである。もし自殺弁護を本気で図るのならば、そもそもゲーテは自殺してしかるべきではないか?

 まあ、ともあれ、そういった議論は専門家に譲ろう。私はウェルテルを読んで自殺者に対する観方が少し変わったように思う。確かにそれは、作中ウェルテルが言うように一種の「病」でもあるのだろう。

 そして「病」をいくら治そうとしても、病魔に蝕まれた心はそう簡単に治癒できるものではない。それを正常な「健康」な人間がベッドの傍に立って「それは単なる怠惰だよ。さあ起きなさい。理性を持ちなさい」と言ったところで、癒えきれぬ「病」を持つ者からしたら「勝手すぎる」発言だ。

 私はこの時、母を思い出した。母は登校拒否になっていた私の兄のことを「心の病にかかっていた」と話した。私はまさしく的を射ていると思ったが、自殺を考える人々もまた同じなのだろう。

 だからこそ、癒さねばならないのだ。治癒せねばならないのだ。少なくともそれが「不治の病」かどうかは、誰にも分からぬ。本人にすら分からぬ。正体の判然とせぬ「心の病」かもしれないし、病名のある「精神的な病」かもしれない。

 しかし、治る可能性はゼロではない。治らないと保証できないなら、治療できるだけのことはしてみて良いのではないか。大切なのはそれに寄り添うことだ。ウェルテルは言う。

「ぼくらは共感するかぎりにおいてのみある事柄を論ずる資格があるわけだから」

 私もそう思う。資格、という言い方はそぐわないかもしれないが、少なくとも寄り添う人、共感する人にのみ、他人は心を開くものではないだろうか。

 いや、家族も同じか。人は心の共鳴を持って生きていくものだから。

 私はウェルテルはどんな人の心にも居ると思う。それは大人になるに従って、心の共鳴を失い、少しずつ忘れられていくものだけれど、消え去りはしない。

 若い人には特にウェルテルは呼びかける。君とぼくは同じではないか? 苦しんではいないか? だとすれば、永遠という名の苦しみからの解放に、ぼくと一緒に誘われてみてはどうか?

 私は、今はまだ答えは出ない。

 いつ何どき、ウェルテルが傍に来て、手を触れてくれるか分からないから。

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