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出雲 ⇌ 京都、狐の通り穴(仮)

ある記事から派生した考察…。

fbで知り合ったkunato(note名)さん。
kunatoさんは、めぇーちゃーめぇーちゃーに、
神話と出雲史と神社などにお詳しく造詣が深い方。
そこで、わたしは度々ご教授頂いている。謝謝🐼💕
(記事最後にkunatoさんのnoteリンクあります👇)

kunatoさんはfbではご本名ですが、神社関連グループでも投稿をされていて、最初のコンタクトは下記記事を見たことがきっかけでした。
これは答えが出せるものではないので、考察を重ねていくしかないもの。
しかし、面白い話ではある(とわたしは信じている笑)ので、記事に上げておこうと思います。


はじまりはこの記事…。⇩


以下、奈みこ考察。


わたしは、伏見稲荷大社と藤森神社の間の位置に住んでいる。
氏神は藤森神社で、稲荷大社も含めた地域と東福寺辺りのエリアまでが藤森神社の氏子区域である。
元々、稲荷の土地も藤森神社の土地で、途中色々あり、今は稲荷は稲荷の土地になっているそうだが、氏子区域は昔のままということのようで、稲荷の地域も藤森神社氏子区域として包括している。
伏見稲荷大社の氏子は、南区のほうの稲荷の旅所がある地域にあたる。

藤森神社は素戔嗚と応神天皇、神功皇后、別雷命、日本武尊…など十二柱の祭神だが、舎人親王が含まれていて、学問の神としてお参りされて、御神徳がある。

劔神社の境内社について、「稲荷社」はよくあるとしても、「藤森神社」がよその神社にあったりというのは、わたしの知る限りでは聞いたことがない。
昔、伏見稲荷はもともと「藤森稲荷」という名で、狐たちも「藤森狐」と言われていたとかで、今でこそ、「稲荷」と言うほうが通じるが、昔はこの土地は“藤森”として広く認識されていた。
もちろん藤森神社のほうが歴史が古いからだとも思うが…

そこで、松江の劔神社にある境内社の「藤森神社」と「稲荷神社」は、京都の二社のことなのでは…という疑惑。
舎人親王が祭神ということだと京都の藤森神社のことに思えて仕方がない。

そして、京都は南から順に藤森神社、伏見稲荷大社とあり、さらに北へ上がって東福寺の近くに、劔神社という神社がある。
祭神は、伊奘諾、伊邪那美、邇邇芸命など。
剣神社は全国にいくつかあるので、必ずしも関係してるとは言えないかもしれないが…

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松江の劔神社と稲荷、藤森の社が東南東を向いていて…ということだが、日本地図で見ると、その方向は京都ではないだろうか…
大体だが、伏見のこの三社がある方向を向いているように思える。

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藤森神社が劔神社の中にある、ということに酷く驚いてしまい、何かつながりがあるのだろうかと、これらを結びつけたというより、これらのことが、やにわに頭に浮かんで繋がってしまった、というほうが正しい。


そしてさらに、京都の劔神社周辺は、「日吉」という地域があり、日吉の付く名称もその周辺は多いのである。

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ここまで仮説を立てただけであるが、摂社に「藤森神社」があって、その上「舎人親王」を祀るって…京都の藤森神社とは無関係です、と言うほうが無理がある笑。

藤森神社(京)は、土地にゆかりの深い神功皇后により創建され、元々土着信仰などの近郊の三つの社が合祀され、神功皇后応神天皇親子、素戔嗚尊、別雷命、日本武尊、仁徳天皇、竹内宿禰の七柱が祀られ、最終的に十二柱でその中に舎人親王があるわけだが、舎人親王が祀られてから後に、松江の劔神社に「藤森神社」社が造られたのか?

別の考察記事にも書いたが、藤森神社(京)の摂社に大将軍社がある。
方位神である大将軍は通常、素戔嗚尊が祀られるが、ここは磐長姫…。
平安時代に、京の都の四方の守護として、東西南北の南に置かれたのがこの大将軍社であるが、実際は、桓武天皇が王城鎮護のために置いてからずいぶん移動しているそうで、最初に置いた四方の正確な場所は特定困難らしい。
1438年、足利義教の造営で重要文化財に指定されている。
この社殿の造営は室町時代なので、平安遷都で都の南に置かれたとされる大将軍社を、室町かそれ以前のどこかで藤森の境内に据えたということだろうから、平安遷都で、実際は南のどこに大将軍社を置いたのだろうか…。
わたしが神社の神官さんに直接尋ねた時も、南の大将軍社はこのあたりに置かれたらしい、というところから境内に摂社として祀ったという話で記憶している。
このあたりというのは、巨椋池を差す南の地周辺のことと思う(推測)。
その時で既に、素戔嗚尊を主祭神に置いているため、大将軍社の祭神を磐長姫にしたのではないか、ということだった。
(理由は記事最後に記すが、素戔嗚が置かれる神社は、出雲と関係が深いのではと奈みこは思う…。)

関連記事はこれ ⇩


出雲(島根のこと)の神社というのは、大体に古感(いにしえかん)が強く、“原始的” な存在で、雅な雰囲気を纏う京都の神社とは確実に違うものがある。
というより、出雲独特の色なのか…。
実際、松江の劔神社と京都の藤森神社のどちらが古いのかわからないが、イザナギとイザナミの神話上のエピソードの地という謂れと、神功皇后が〜という謂れからしても、どうしても出雲の原始的イメージのほうが時の長さとしては勝る。
実際は藤森神社(京)が古かったとして、出雲地方の神社の境内社に稲荷と藤森があると言われても、人間の思惑や都合丸出しの芸のなさ、もしくは狙わずスーパーミラクルな偶然が起きた笑、かのどちらかのように思ってしまう。
これで創建が劔神社のほうが先で、境内社も先にあったということなら面白いんだが、境内社という時点で、京都の影響と言っていいだろう笑。
京都の藤森神社は、全国でも指折りの古社に入るので、そういう意味では、劔神社にその影響で、本殿とは別で後からだとしても「藤森」と「稲荷」が置かれたというのが順当な見解だろう。


しかしながら、「藤森」が付くと、狐絡みにも思える。
戦後に伏見稲荷に変わったが、それまでは藤森稲荷であり、狐にとっては、稲荷本山の狐は未だに藤森狐であるのだから、劔神社の藤森神社近くには、通り抜けの穴があるんじゃないか…🦊
どこの稲荷にも稲荷本山に直通の穴があるっていうからねぇ…
狐目線で捉えると、また違った見方が生まれてくるので面白いんだが…


…ん?

…てか

…ぁれ?


もしかして、これって…

ヤマトの出雲人に対する忖度のひとつなのか………?

京都の歴史ある神社、主要な神社(八坂神社とか)に素戔嗚を置いたのは、古事記の花形、八岐大蛇伝説の英雄であるスサノオ = 出雲の英雄、的なヨイショのご機嫌取りだったのか…?w

否めないけど、ここではこれまでにしておこう。
タブーに触れる笑。


仮説真っ最中、考察は続く…。




kunatoさんのnote ⇩ 神話、出雲史を知るのに必見です!!




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