糧の灯り

   糧の灯り
                            永作未都子

海辺の人が囁き合っている
海の人がそれを聞いている
丘の人は話に入りたそうだ
私は堤防の上から情景を見ている

朝陽に照らされた時間は
ひどく鮮明で
ぼやけている
私の過去の視界のようでもある

堤防の上を素足でなぞる
ざらざらとした感触
足の先をつーっとそわせれば
音がする

音は弦楽器に似ている
未熟な弾き手である私の弦は
覚束ない
足先で弾くことに頬が緩む

音に気づいた人たちがこちらを見る
「人間だ
人間がいる」
どうやら人と人間は違うらしい
「私たちが見えるのかしら」

先程までとはまったく違う
人々の声の鮮明さ
私は目眩を覚え倒れる
弦がひどい音を鳴らす

覗き込まれた顔たちは
陽に焼けていたり
真っ青だったり
ギョロ目だったりした
私は手を伸ばして弦を弾く
音に人々は私から目を逸らし
私の指先を見つめだした


 永作未都子が毎朝の恒例行事として芸術学部の大学教員である私にいつも通り、詩を渡してきた。その日の朝はひどい雨で彼女の髪も洋服も濡れていた。いくら真夏だからと言っても風邪を引くのではないかと少々心配した。
 しかし、私のその心配は未都子の詩の冒頭ですぐに視線を逸らした。今までにない新しいタイプの詩に見えた。未都子は表情を変えないまま私を見つめていた。無表情。張り付けられたようなその顔面を一度見て私は詩の世界にそのまま足を突っ込んでいった。
 読み終わると未都子は何も言わずに私の前を去って行った。感想がほしくないわけではないことは知っている。私の顔を見れば未都子はあらゆることを察する。それは彼女の感受性の豊かさからくるものだ。感じ取り過ぎる。生きにくいだろう、な、と思うとため息をつくしかなかった。

 「天才」。言うなれば本物。私はそういう人物をもうひとり知っていた。それは私が大学でバカな男子芸大生として日々を無駄に過ごしていた頃だ。私は大阪の芸術大学に通っていた。芸大は派手な男や女であふれ、私はその狂乱の中で偽物である自分の存在をあやふやにしようと奮闘していた。
 その男としっかり出会ったのは大学二年の春だった。無口で、いつも窓の外を見ているそいつは友達も恋人もおらず、ただ、言葉と向き合っていた。だけど、その頃、そいつにとって自分とだけ向き合うことに限界が来ていたのだと思う。そいつはなぜか僕に話しかけてきた。そいつの名前は藤堂真司。ほっそりとした、女にも見える美青年であった。
 真司の名前は大学内でかなり知れ渡っていた。どの教授も真司を褒めたり目の敵にしたりした。真司は所謂、本物、で「天才」だった。最初私は真司を疑っていた。どうしてこんな俺に近付いて来たのか。真司は才能をひけらかすようなタイプではない。そうであればすでに別の人間に近付いていたであろう。私と友人関係になって得になることなど、真司にはないはずだった。そう、そんな風に私は友人関係を見ていた。損得で人付き合いをしていた。そういうところも自分は偽物だと思えた。それならやめればいいのだが、飄々と生きることだけがその頃の私のアイデンティティだった。
真司が小説を私に見せてくれたとき、私は救われた気がした。希望のような物が見えた。こんな風に素晴らしい作品を書ける人間が、こんな風に生きづらそうに生きている。それは感受性の豊かさ故のことで、仕方ないことなのかもしれない。でも、私はそのとき、真司の理解者になりたい、と本気で思った。このか弱そうな男が生きて行けるような世界を創らなくてはいけないと思った。
 真司は笑うと顔がくしゃっとなり、ひどく可愛らしかった。真司は私が紹介したとてもやさしい女の子に恋をした。きっと上手くいく。真司がこの感受性の豊かさに飲み込まれてこの世からいなくなることはない、と私は安心しきっていた。
 だけど、そんなこと、なかった。彼は呆気なく私達の前から消えた。
 真司の恋人であるさっちゃんから深夜に電話がかかってきた。
「真司くんと連絡がつかない」
 嫌な予感に首筋を冷たい汗が伝った。あれも夏の出来事だった。
 真司は飛び降り自殺をしてこの世を去った。理由は未だに分からない。真司の葬式でぽろぽろと、黙って、放心して、涙を流しているさっちゃんに私は求婚した。さっちゃんに恋心があったわけではない。私は真司が愛したひとが欲しかった。
「俺はきみに指一本ふれない」
 そう約束した。
 私達の結婚生活は二十年続いた。私達は親友だった。代えのきかない大事なひとを亡くした二人として上手くやっていた。しかし、さっちゃんも、真司の命日である八月十七日に乳がんでこの世を去った。私はとうとうひとりぼっちになった。

「先生」
未都子は私の前に急に現れた。
そして無礼とも呼べるようなコーヒーの染みがついたコピー用紙を渡してきた。それは彼女が大学一年の秋のことだった。
「詩を読んで欲しいんです」
 彼女はそう言って私を見た。その目に私は真司を見た。同じだ、同じ。そんな感覚を憶えた。それは、彼女がすでに教授たちの間でその才能を認められていたからではない。私の勘が働いたのだ。


   夢中
             永作未都子

けたたましい音が鳴って
私は目を覚ました
あらゆるものを叩いたり蹴ったりしても
音は鳴りやまなかった
うるさい、うるさい、うるさい
私は絶叫した

目を開けても
部屋を出ても
音は鳴りやまなかった
音は私の生活を蝕み
豊かにした
音が聞こえれば聞こえるほど
私の日々は加速した

ある日
スーパーで子どもに母親と間違えられた
私は子どもの目線に膝を曲げた
子どもは泣くのをやめた
けたたましい音が
尚更強くなった
子どもは母親に見つけられ
消えて行った
私は頬がゆるむのを感じた

次の日
ニュースでその子どもが川で溺れ死んだ
音がますます絶叫した
私は部屋の中で笑うのをやめられなかった
隣の住人に壁を叩かれた
私は包丁を持った
もっと音が欲しい


私は未都子の顔を見た。未都子はまるで、観音様のように美しく笑っていた。私は絶望した。こんな希望がまた現れてしまった。私は未都子を「奇才」と名付け、本物と呼ぶことにした。

 そのとき、また、生きる意味が生まれてしまった。

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