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「中途半端な関西弁を話す関東人が許せない」のは何故か

「中途半端な関西弁を話す関東人が許せない」という話がネットで盛り上がっていました。
京都などでは外の人が馴染むのは本当に大変だそうです。

マレーシア人に話したら、
「えー、そんなことないでしょ。私が関西弁話すと関西のみんな喜んでくれますよー」と言ってました。

同じ関西人でも、外国人には寛容なんですよね。
ところが同じ日本人が、中途半端に真似するとなると許せない。

新参者が一生懸命に真似しようとしても、うまくいかないことがあります。
そこを揶揄したり、バカにしたり、嫌悪したりする人が多ければ、新しい言葉を話すことに対して人は萎縮します。
同じ日本語の方言でもそうなのだから、外国語が上手くなるはずないですよね。

しかしこの心理状態は、なんなんでしょうか?

言葉が、アイデンティティと深く結びついていて、よそ者が真似することに嫌悪感がある。
つまり、よそ者を排除したい、という心の表れなんじゃないでしょうか。
よそ者が方言を完璧にマスターしたところで、次には動作が違う、親が違う、出身が違うなどといろんな理由をつけて排除する気がします。
関東でも「3代住まないと住民とは認めない」なんて言いますしね。

そのマレーシア人「意味がわかんないですねー。単なる意地悪じゃないですかね」と言ってました。

小さなマナーも同様で、「我が家のしきたりではこう」「我が社のマナーはこう」「うちの味噌汁の味はこう」と
相手の小さな違和感も見逃さない人が多いです。
「違うこと」を「許せない」って感じる人が多いんですよね。

「ジャンニ・スキッキ」というイタリアのオペラでは、意地悪なおばさんが、「田舎からフィレンツェに来た男だ」という理由で、ジャンニ・スキッキをバカにします。対してヒーローのリヌッチョが「歴史をご覧。フィレンツェという都市は外から来た人によって発展したんだよ」と歌います。結構普遍的な心理なんでしょうね。


ところが、マレーシアにいて、こういう話を聞くことはまずありません。
むしろ田舎の人の方が寛容に受け入れられると言われます。
片言のマレー語を嫌がられることもないですよね。
それだけ、食べ物も豊かで、分け与えても十分行き渡ったからかな。

日本はそれだけ貧しい農村出身者が多いのではないかなー。
よそ者に食べ物を分け与えたりする余裕がなく、よそ者を排除する文化が出来上がったんじゃないかな。

日本人が外国語ができないのも、
小さな争いが絶えないのも、
この辺りに理由がある気がします。


先のマレーシア人のように日本語を話す外国人が増えると、この流れが変わる気がします。
私たち自身が「外国人には寛容なのに、同じ日本人には厳しい自分たちの矛盾」に気がつくから。
そうなった時には、日本の社会が大きく変わるかもですね。

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