#9 マルクス・アウレリウス『冥想録』村山勇三訳(概説)
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#9 マルクス・アウレリウス『冥想録』村山勇三訳(概説)

こんにちは、古い本の電子化をしているnisiといいます。

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アウレリウスの哲学

 アウレリウスの哲学の倫理的部面は、彼の一般原理から出てゐる。彼の哲学の帰結は、「自然」即ち人間自身の性質及び宇宙の性質に順つて生活するにある。ビシヨップ・パトラは、希臘哲学者の意味した自然遵合の生活に関して、「それは放縦、無定限の法式を云ふのではなく、却つて明瞭、的確な且つ厳密に正しく真実な事である」と説明してゐる。「自然」に従つて生活することは、人間の全性質に遵合するの謂ひであつて、唯その一部分に順ふことではなく、且つ己れ自身の中にあつて、一切の行為の支配者たる神性を尊敬することである。理性の動物に取つては、同一の行為が自然に遵合すると共に理性に遵合する(第七篇十一節)。理性に反して行はれる事は、たとひそれが人間性質の或る部分に遵合するとしても、全性質には背反するものである。人間は行為のために造られ、懶惰や快楽の為には造られてゐない。植物や動物やが彼等の自然性を使用するやうに、同様に人間も己れのものを使用しなければならぬ(第五篇一節)。
 なほまた人間は、宇宙の性質に遵合して生活しなければならぬ、つまり彼は万物の中の一つであるからである。さうして政治的団体の一員としては、彼は自分が共に住み、目的を共にするところの人々に照応して、己れの生活と行為とを導かねばならぬ。人間は自分の同胞兄弟から分離して、孤独に隠退してはならない、彼は大全体における自分の役割を演ずるやう積極的でなくてはならぬ。総ての人間は単に血液に於てのみならず、同一の霊智に関与して居り、且つ又同一の神性の一部分であるが故に、猶更同胞兄弟である。人間はその兄弟のために、真実に害を加へられることは出来ない。なぜなら彼等の行為は、その相手を悪化することが出来ないからである。そこで彼はその人々に対して怒つてはならないし又憎んではならない。「我々は恰も両足の如く、又両手の如く、又上下の瞼の如く、又上下の歯列の如く、相互共同のために造られて居る。甲乙互に軋轢することは自然に背反する、而も互に悩まされ、互に嫌忌することは相互背反の行為なのである(第二篇一節)。
 更にアウレリウスは日ふ……「神に就て思惟しながら、一事に快を取れ、そしてその中に休み、一つの社会的行為から他の社会的行為に移るがよい」(第六篇七節)。又「人類を愛せよ。神に順へ」(第七篇三十一節)。人間に取つては、己れの隣人を愛することは、理性的心霊の特徴である(第十一篇一節)。アウレリウスは処々方々の章句の中で加害を赦すことに就て教へてゐる、そして我々は彼がやはりその教へた事を実行したのを知つてゐる。この戒律の実行は有らゆる美徳の中で最も困難である。アウレリウスは屡々これを力説し、そしてそれを履行するやうに我々に援助を与へる。我々は害を加へられる場合には憤慨し怨恨を感ずる、そしてこの感情は自然であるし、又社会の保存に取つては正しく且つ有用である。悪行者がその行為のために自然的応報を受けることは有用である。しかし、厳密の意味に於ての復讐は行つてはならない、「最善の復讐の方法は加害者のやうにならないことである」と皇帝は言ふ。その意味は如何なる場合にも復讐をしてはならないといふことが明白である。しかし悪に対する復讐を談ずる人々に対しては、彼は「その害を加へた人のやうになつてはならない、」と言つてる。ソクラテスは「クリト」の中で別の言葉で同一の事を言つて居るし、聖ポウロも亦た「ローマ書」(第十二章十七節)に同じ事を言つてる。「ある人が汝にある悪を行つた場合には、その人が善悪に関するどんな意見をつてさう行つたであらうかを直ちに思惟するがよい、なぜなら汝がそれを看取すれば汝は彼を哀れみこそすれ驚きも憤りもしないであらうから」(第七篇二十六節)。

(次回:概説終)

その他

著作権切れの作品ですが、利用される際はできるかぎり底本と対照してください。責任は負いかねます。旧字体は新字体に改変しています。仕様上、割り注や字下げなど再現できていない箇所があります。

底本:『世界大思想全集3』春秋社(1927)
著者:マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)
英訳:ジョージ・ロング(1800-1879)
和訳:村山勇三(1887-1958)

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