#10 マルクス・アウレリウス『冥想録』村山勇三訳(概説)
見出し画像

#10 マルクス・アウレリウス『冥想録』村山勇三訳(概説)

こんにちは、古い本の電子化をしているnisiといいます。

前回のつづきです。今回で概説は終わりです。一覧はこちらから。

注意として、誤字脱字を含んでいる可能性があります。あやしい箇所や問題があれば、コメントや質問箱で教えてください。
また、今日では不適切と受け取られる表現を含んでいる場合があります。ご了承ください。

アウレリウスの哲学

 皇帝の道徳哲学は、己れ自身の幸福を端的に求めよと教へるやうな偏狭な体系ではなく、却つて人間の幸福乃至安静は己れの当然生活しなければならぬやうに生活する事によつて間接に増進されると教へる。人間は宇宙の性質に遵合して生活しなければならぬとあるが、その意味は皇帝が処々方々で説明して居るやうに、それは政治団体の一員としても、また全人類的家族の一員としても、他のあらゆる人間に対する真の関係に順つて己れの行為を制限しなければならぬと言ふにある。詳言すれば、苟くも他人に影響を及ぼす限りの言行は、自ら一員として属する特定の社会及び全人類の保存と利益とに合致するところの或る確定した規則によつて、制限されなければならぬ。このやうな規則に順つて生活するには人間は己れの一切の行為と他の人々の行為との結果と影響とを明白に識別するために己れの合理的性能を使用しなければならぬ。つまり思索によつて己れの魂を休め清めるために屡々孤独にならねばならぬ、とはいひながら観照と反省のみの生活をしてはいけない。却つて人間は人事に関与して、一般の利益のために共同的労役者とならねばならぬ。もし或る事物が蜂窩の全群に取つて善でないならば、それは一匹の蜂に取つても善でない(第六篇五十四節)。
「もし神々が私のこと及び私に生起すべき事物のことを決定したとすれば、彼等は良好に決定したのである。なぜなら先見のない神格などは想像することさへも容易でないから。それに、私に害をなすことに就て言へば、何が故に彼等はそんな欲求を持つであらうか。これがために彼等神々にとつて、もしくは彼等の摂理の特殊目的たる全一体にとつて、何の利益が将来されるであらうか。しかしながら、もし彼等が私の事を個別的に決定しなかつたとしても、彼等は少くとも全体の事は確かに決定したのである。そしてこの一般的統制の結果として生起する事物は、私が欣々然として受取り、それに満足しなければならぬ。……」
 人間の本然性に於ける第一の性能は、社会的である。第二に位ゐするものは、肉体が支配性能たる理性に遵合しない場合、その肉体の勧説に打負かされぬ事である。第三は誤謬からも亦た瞞着からも免かれる事である。
 皇帝は特に正義を選んで、他のあらゆる美徳の根柢になるものとして居るが、これは彼よりも遠い昔から言はれてゐた事であつた。精神の一特性として及びこの特性に遵合する行為に関する一種の概念としての正義がどういふものであるかは、総ての人々が略々知覚して居るのは事実である。しかし経験の示すところに依れば、人類の正義に関する概念は極めて混雑して居り、従つて彼等の行為は真の正義の観念とは合致しないのである。皇帝の正義の観念は十分明白であるが、しかし全人類に取つては十分実行可能ではない。「外的原因から来る事物に関する煩悶からは解脱するがよい、そして内的原因の力に依つて為された事物は正義ならしめるがよい。言ひ換へれば、己れの性能が自然の定めた正しき容態に置かれんがために、己れの欲情と行為とを全人類の利益のために用ひなければならぬ」(第九篇三十一節)。また彼は外の場所(第九篇一節)で「不正義の行為をするものは不敬虔の行為をするものである」と言つてゐる。彼は真理の実行を以て美徳、乃至美徳の手段であると主張する、が、それは勿論さうである。彼は正義の観念を行為と結び附ける。何人にもせよ、頭の中に美しい正義の観念を有つてゐることを誇つてはならない。却つて聖ヤコブが信仰の観念に就て言つたやうに、己れの正義を行為に現してこそ始めて価値があるのである。
 アウレリウスの未来生活に関する意見はどこにも明白には表現されてゐない。心霊の性質に関する彼の教理は、必然的に次の事を包含する、即ち心霊は死滅することの出来ない神性の一部分であるから絶対に死滅しない。この見解は少くともエピカルマスやユウリピデスの時代の昔からあつた。土から来た物は土に返り、天(神)から来たものは又それを与へた神に還る。しかし死後に存在する人間が、その土の器の中に保つてゐたのと同じ魂を持つかどうかといふ観念に就ては、アウレリウスはどこにも明かに述べてゐない。この問題では彼は当惑して、そして結局神又は神々は万物の普遍性と遵合した最善の事を行ふであらうといふ所に安んじたやうに思はれる。
 幸福はストア学徒の生活の直接目的ではなかつた。人間は己れ自身の幸福を追求しなければならぬといふ戒律の中には、生活法は含まれては居ない、人々は或る特殊の情欲すなはち己れの有する最も強き情欲を満足せしめようとしてゐる時こそ幸福を求めつゝあるのだと考へる。既に述べたやうに、人間の目的は自然に即して生活する事である。さうして彼はかうして幸福と心の平安と満足とを獲得するのである(第三篇十二節、第八篇一節)。自然に即して生活する手段として、人間は四大美徳すなはち智慧(善悪の知識)、正義(各人にその当然の別け前を与へること)、剛毅(労役と苦痛に堪へること)、及び節制(あらゆる事物に控へ目であること)、を研究しなければならぬ。かうして自然に即して生活することによつて、ストアの人々は自然の願ふところ若くは自分の期待したところを悉く獲得した。その褒賞は己れの道徳生活そのものにあつた、そしてそれに満足した。
 エピクテータスとアウレリウスとは孰れも戒律及び実例によつて、各自自身と他の人々とを改善しようと努力した。そこで、たとひ我々は彼等の教へに欠点を発見するものとしても、それでも我々は人間性及び自然事物の本性の中に、道徳生活を送るに十分な理由があるといふことを証明しようと努力したところのこの二人の偉人を尊敬しなければならない。若し己れ自身の行為に対して、反省と批判の能力を唯控へ目に行使するならば、如何なる人に取つても自分の当然生活しなければならぬ風に生活することは困難である。そしてたとひ総ての人々が道徳上及び宗教上に同一の意見を持つやうにせらるゝ事が出来ないとしても、彼等をしてそのやうな意見を受け容れるやうな素地を持たせるために、有効な理由を提供することは、少くとも尊重すべきである。

(次回:第一篇)

その他

著作権切れの作品ですが、利用される際はできるかぎり底本と対照してください。責任は負いかねます。旧字体は新字体に改変しています。仕様上、割り注や字下げなど再現できていない箇所があります。

底本:『世界大思想全集3』春秋社(1927)
著者:マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)
英訳:ジョージ・ロング(1800-1879)
和訳:村山勇三(1887-1958)

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
非常感謝!