#6 マルクス・アウレリウス『冥想録』村山勇三訳(概説)
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#6 マルクス・アウレリウス『冥想録』村山勇三訳(概説)

こんばんは、古い本の電子化をしているnisiといいます。

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アウレリウスの哲学

 戦争と悪疫と陰謀と一般的堕落との真唯中で、且つまた実に厄介極まる帝国の重荷を一身に担つた皇帝アウレリウスが如何に屡々あらん限りの勇猛心を尽して辛うじて己れ自らを支持したかは、容易に想像し得られることである。最善最勇の人々でも、疑惑と失望の瞬間を有つのであるが、しかし若し真に最善最勇であるならば、彼等は丁度アウレリウスがしたやうに、第一原理に帰還してその失望落胆から再び立ちあがるのである。皇帝は言ふ、生活は煙であり、水蒸気であると。彼は自ら最も確実に把持するものに就てさへも恐らく時としては疑惑を抱いたであらう。この種の章句は唯僅かにあるのみであるが、而もそれは最も高貴なる人の子がその日々の生活の苛烈なる現実から受けなければならなかつた苦闘の証左である。皇帝の冥想録は彼が実生活に於て慰藉と安静とを要し、且つ又死に対する覚悟を要した事を現はすものであると言ふやうな意味の事を、或処で読んだのであるが、それは実に拙劣な言である。彼が慰籍と幇助とを要した事は真実である、而も彼がそれを如何にして見出したかを我々は看取する。彼は絶えず自己の根本原理に立ち返るのであつたが、その原理とは即ち宇宙が賢明な秩序を有すること、各人がその一部分であつて自分で変化せしめることの出来ない秩序に遵合しなければならぬこと、神の為した事は総て善良であること、あらゆる人類は互に同胞兄弟であること、人々はたとひ自分に害を加へる者に対してでも、互いに愛し育み善良に導かねばならぬことなどを意味するのである。彼の結論はこれである(第二篇十節)
)……「然らば人間を指導し得るものは抑も何か? 一事がある、唯一事、即ち哲学がある、しかしこれは守護神ダイモンを魂の中に安置して、凌辱せず加害せず、快苦を超越し、目的なき行動を取らず、又は虚偽偽善の行為をなさず、他人の行動の如何に左右せられず、加之、あらゆる出発事、あらゆる運命をば、己れ自身の出で来つた源から出て来たものとして甘受し、そして最後に、死を目してはあらゆる生物がその構成分子に還元することに外ならぬものと認めて、快活な心で死を待つにあるのである。しかしながら諸元素が不断にそれぞれ変化流転しても何等の害がないとするならば、人間は何が故に此等の諸元素が変化し解散することに危懼を抱くであらうか? つまり、それは自然に即して居り、而も自然に即したものには何の害悪もない訳であるから。」
 アウレリウスの物理学は宇宙の性質とその支配と及びこれら二者に対する人間性質の関係とに関する知識である。彼は宇宙を「普遍的実体」と名づける、そして彼は「理性」が宇宙を支配すると附け加へる。彼はまた「普遍的性質」もしくは「宇宙の性質」といふ名辞を使用する(第六篇の節)、彼は宇宙を「一にして全なるコスモス即ち秩序」と呼ぶ。人間が存在するものとして何等かの意味で認識し得る一切のもの、即ち「全」を意味するものとして、彼は常にこれらの一般的の言詞を用ひるやうであるが、尚ほまた彼は或る場合には、「物質」、「物質的事物」及び「原因」、「起原」、「理性」を明かに区別して居る。これはゼノウの教理に合致するものであつて、つまり有らゆる事物には二つの原理即ち行為するものと行為しかけられるものとがある。行為しかけられるものは構成なき物質であり、行為するものは理性である。理性は即ち神であつて、これは永遠であり、あらゆる物質の中に働く、且つ又万物を生産する。アウレリウスも同じ意見で、あらゆる実体に遍在し、且つあらゆる時代を通じて宇宙を統制するところの理性(第五篇三十二節)に就いて語つてゐる。神は永遠であり又物質も永遠であり、物質に形を与へるものは神であるが、しかし神が物質を造つたとは言つてゐない、この見解は遠くアナキサゴラスと同様であるが、これに依れば神と物質とは別々に存在し、たゞ神が物質を支配する。この教理は、物質と神との両者の存在事実に就いての単なる表現に過ぎない。ストア学派は起原及び物質の性質と云つたやうな解決不可能な問題には心を煩はさなかつた。アウレリウスも矢張り、我々が今日やつて居るやうに万物の始源を仮定してゐる。然し彼の言辞は時々異常に曖昧である。
 物資は有らゆる物質的事物が作られてゐるものゝ元素分子から成立つ。しかし何物も形に於ては恒久ではない。アウレリウスの表現に従へば、宇宙の性質(第四篇三十六節)は、「現にある諸事物を変化して、それらの如き新しき物を作成することを何よりも愛する、つまり現に存在する各事物は、ある意味に於て、将来存在せんとする事物の種子であるから。しかし汝は唯々地中又は子宮の中に投入せられる種子のみに就いて思考しつゝあるが、それは甚だ幼稚な観念である」。そこで万物は不断の流転変化の中にある、或る物は元素に分解し、又ある物はそれに代つて生来する、そこで全宇宙は常に若く且つ完全に継続する」(第十二篇二十三節)。
 アウレリウスはその謂ゆる「胚子的原理」に就いては、不明瞭な表現をしてゐる。彼はそれを以てエピキュリアンの原子説に対抗せしめる、従つて彼の「胚子的原理」は目的なく彷徨する物質的原子ではない。或る章句の中では彼は生活原理即ち心霊がその肉体の分解後宇宙の「胚子的原理」に受容せられることを言つて居る。シュルツの考へではかうである……アウレリウスの言ふ胚子的原理とは種々様々の元素的原理の関係であつて、この関係は有機的存在の生産を可能ならしめるところの神性に依つてきめられる、と。或はこの意味かも知れないが、若しさうだとすれば、この説からは何の価値あるものを引き出すことは出来ない。
 アウレリウスは屡々「自然」の語を用ひる。そこで我々はその意味を限定するやうにしなければならぬ。単なる語原的意味からの自然は「生産」である、即ち我々が事物と呼ぶものゝ出産である。ローマ人もこの言葉を用ひたが、それは矢張り語原的には出産を意味した。しかしギリシヤ人もローマ人も亦た我々も、この単純な意味には固着しない。アウレリウスは第十篇六節にかう言つて居る……「宇宙が原子の集合であるとも、又は自然〔組織の意味〕であるとも自分が自然によつて支配されてゐる全体の一部分である事を、先づ第一に確立せしめるがよい、」と。此処では、この言葉はさながら人格化されて、或る能動的な有効な力を賦与されて居るやうに見られるかも知れない。一体この自然といふ言葉は、今日でも非常に広い意味に用ひられ、ある著者などは或る正確な意味を限定せずにこの言葉を使用する。しかし、この自然といふ言葉には、厳密に云へば、ある限定を与へた上でなければ意味をなさない。此処にプラトンの用ひた場合を挙げるとしよう、曰く「神は存在する万物の初めと終りと中程とを保持し、自然(即ち定められたる順序に依つて)に従つて、その巡行を為しつゝ進路を真直に進む、そして彼は不断に正義に伴はれて居るが、これは神性法則即ち神が遵守するところの順序または行程から脱線するものを罰するのである」。
 さて、アウレリウスが「自然」や、事物の変化や宇宙の経済やに就て語る場合には、その章句が理解するに非常に困難であるが、彼の用ひた「自然」乃至「自然的」の意味は上に述べたのと同一であることを信じて疑はない。そして彼は言葉の明瞭な用ひ方をよく心得てゐた人であるからして、たとひ或る章句に於て彼の意味が疑はしくあつても、彼の自然に対する見解は、神の遍在と全智全能とに対する彼の確信と合致して居ると解しなければならない(第二篇四節、第四篇四十節、第十篇第一節、第六篇四十節)。

(註)セネカの De. Benef. IV. 7 スヰーデンボルクの Angelic Wisdom, 三四九――三五七を参照

(次回:つづき)

その他

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底本:『世界大思想全集3』春秋社(1927)
著者:マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)
英訳:ジョージ・ロング(1800-1879)
和訳:村山勇三(1887-1958)


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