#7 マルクス・アウレリウス『冥想録』村山勇三訳(概説)
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#7 マルクス・アウレリウス『冥想録』村山勇三訳(概説)

こんばんは、古い本の電子化をしているnisiといいます。

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アウレリウスの哲学

 アウレリウスの文中には理解し難いものが沢山ある。そして、それは彼が自分で書いた事を悉くは理解してゐなかつたと言つてもよい。一体、人間は自分にも又他の人にも理解できない事を書くといふ事が時折あるのであるから、この事は大した問題ではないであらう。彼は事物の真相を観るには、それらを材料と原因と関係乃至目的とに分解するやうにと我々に告げる。彼の意味する所は吾々が結果もしくは終末と呼ぶものを指して居るらしい、「原因」といふ言葉はむづかしい。サンスクリットにも同じ言葉があつて、印度やギリシヤの煩瑣な哲学者や及び近代の或る一派の哲学者等はすべてこの語または此れと同義の言葉を漠然たる意味に使用する。しかも意味の混乱が時々生ずるのは、その著者の精神に於てと言ふよりも寧ろ言葉の曖昧にあるらしい。なぜなら極めて賢明な人達が自分の言はんとする事を知らないとは考へることが出来ないからである。アウレリウスが「存在する万づの物は或る意味に於て将に存在せんとするものゝ種子である」(第四篇十六節)といふ場合には、彼は恐らく或る印度の哲学者の言つて居ることを言はうとしたと推測されるかも知れないが、さうなれば深遠な哲学が粗野な妄想になつて仕舞ふ虞れがある。しかし彼は「ある意味に於て」といふ、そして彼は或る意味に於て真実を言つた、外の意味で言へば、若し読者に誤まられるならば彼は嘘を言つた事になる。プラトンが「何物も常に有らずして、唯常に成りつゝある」と言つた場合には、彼は我々が或る物をそこから引き出し得るところの一つの論題を提出したのである。何となれば、彼はそれに依て原因結果に関する有らゆる空想的観念を打破して、総ての実際観念を打破しないのであるから。我々に見えるがまゝの自然事物の連綿たる系統は、時を追うて即ち逐次的に観照されねばならぬ。従つて我々は物の或る状態と他の状態との間には間隔を想像し又は推測する、従つてそこには先後の順序があり、また間隔があり、また存在があり、また存在の断絶があり、且つまた始めと終りとがある。しかし事物の自然性にはこのやうな種類の事は全く無いのである、それは永遠不断の継続である(第四篇四十五節、第七篇七十五節)。アウレリウスは時代(第十篇二十六節)に就て述べて居るが、その場合には彼は一つの原因が行為し、次に他の原因が前者の残して置いた仕事を継承することを意味するのである。そこで我々は、「自然の自己進化力」と呼ばれてゐるものに類した一種の観念を彼が有つてゐたと恐らく想像するかも知れない、それは実に見事な言句であつて、それを初めに書いた人が恐らく認識しなかつた意味を有つて居ると思はれる。かうして彼は、万事万物が自然または物質から進化によつて生来し、若しくは神ではなくして神の代理をするところの或る物から生来すると観るところの印度哲学者の或る一派と自然に連坐することになる。……
 さて、アウレリウスは或る章句(第十篇二十六節)に於て、我々の肉眼によつては見られないが、しかし同様に明瞭に行為するところの力、といふ事を言つて居るが、その意味は明白には何人にも理解されない。しかし、他の多くの章句から綜合して見れば、彼の観念は略々明白になつて来る。それは聖ポーロが「彼のうちに我等は生き且つ動き且つ存在す」とアテネの人々に対して言つた場合の意味と相類するもので、而もこのポーロの言葉は決して新しい教理ではなく、ギリシヤの詩人の句を引いたものである。ストア学派に属する一人であつたクレアンセスがジウス即ち天帝に捧げた高い讃歌に意味深長な表現がある、それは自然から力を剥ぎ取つて、自然を直接に神の支配の下に置くことを意味するものである。
  大地の周囲を旋廻する諸の天は
  唯々として汝が導き給ふ処に従順に従ふ。――
  神よ汝ゐまさゞれば何事も地上に成らず
  又空中の領土にも又海上にも、
  唯悪人等がその愚妄を恣にするのみ
 神の力とその支配との存在に関するアウレリウスの確信は、宇宙の秩序に関する彼の観念に基づいて居つた。ソクラテスと同様に、たとひ我々は神の力の形を見ることは出来ないとしても、その働きを見るが故に、その存在を知る、と彼は言つて居る(第十二篇二十八節)。
 さて神は存在するとして、その性質をどうして我々は知ることが出来るであらうか? 人間の心霊は神からの流出物であるとアウレリウスは言ふ。つまり我々は獣に類した体を有つてゐるが、同時に神々のやうな理性と霊智とを有つてゐる。動物は生命と謂はゆる本能又は自然的行為性能を有つが、理性の動物たる人間のみが合理的な聡明な心霊を有つ。アウレリウスは絶えず次の事を主張してゐる……即ち神は人の衷にあり、従つて我々は絶えず己れの衷なる神性にかしづかなければならない。つまり我々が神の性質に関して知識を持つことが出来るのは、この方法に依るの外はない。人間の心霊は或意味に於て神性の一部分であつて、そして霊魂のみが神と或る交通を持つ。彼はかう言つてゐる(第十二篇二節)……「たゞ霊智のみが神自身から是等の肉体に流れ来り、引き入れられて居るので、神はその霊智の部分に於てのみ人間と交通する」。人間の衷に隠されてあるものは生命であつて、この生命こそは人間自身である、その余のものは総て是れ着物であり被ひであり機関であり道具であつて、これらは生きた人間すなはち現実の人間がその現在の生存目的のために使用する附属物である。
 空気はそれを吸入し得る者のために普遍的に散布せられてゐる、同様に万物をその中に保持するところの霊智力も、それを喜んで分け取らうとするものゝために空気のやうに広く自由に散布せられてゐる(第八篇五十四節)。人間が神の智識に到達するのは、神聖な生活を送ることによつてゞある。人間が神に最も近く接触するのは、アウレリウスの呼ぶところの内心の神(daimon 又は Theos)に従ふことによつてゞある。「神々と共に生活せよ、そして神々と共に生活するのは如何なる人か、それは己れに指定してある事に誠心誠意満足し、己れの心中の守護神ダイモンの欲する一切を行ふところの心霊を不断に神々に示すものなのである。蓋し、各人の守護神はジウスが各人の一部分として、各人の保護者、指導者として各人に与へたものであり、即ちこれは各人の理解力と理性なのである(第五篇十七節)。
 人間のうちには即ち理性のうちには、最高性能たる霊智があつて、それは行使せらるれば自余の全体を支配する。これは支配性能であつて、これに優るべきものはあり得ないし、又あつてはならない。アウレリウスは屡々この言辞を使用する、また外にも同意義のものがある、彼は之を第七篇六十四節には「支配する霊智」と命名して居る。この支配性能が即ち心霊の主人である(第五篇十六節)。人間はたゞ己れの支配性能と心中の神とを尊敬しなければならぬ、宇宙に於ける最高のものを我々が尊敬せねばならぬ如く、同様に我々は自分の中の最高のものを尊敬せねばならぬ(第五篇二十一節)。また彼は或る章句(第一篇十九節)では、人間の白己破壊に就て述べてゐるが、それは人間のうちなる神聖な部分が一段非重要な部分すなはち滅び易き肉体に圧倒されて降服する場合をいふのである。要するにこの問題に関するアウレリウスの意見は、たとひその表現の仕方が色々に変るにしても、その真意のあるところは、我々の心意の様々の感情と我々の実生活上の行為とを調査して是認し若くは非認する所の性能すなはち反省または良心の自然的優越性を主張するものである。

(次回:概説続)

その他

著作権切れの作品ですが、利用される際はできるかぎり底本と対照してください。責任は負いかねます。旧字体は新字体に改変しています。仕様上、割り注や字下げなど再現できていない箇所があります。

底本:『世界大思想全集3』春秋社(1927)
著者:マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)
英訳:ジョージ・ロング(1800-1879)
和訳:村山勇三(1887-1958)

概説を途中で投げ出し、先に本編の入力を進めたおかげで次回からゆっくりになりそうです。(本編は六篇まで入力済)

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