#8 マルクス・アウレリウス『冥想録』村山勇三訳(概説)
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#8 マルクス・アウレリウス『冥想録』村山勇三訳(概説)

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アウレリウスの哲学

 宇宙が一つの生きた存在であると云ふ観念に就て、アウレリウスは色々に言つて居るが、しかし決着する所は次にある……人間の心霊はその肉体に極めて密接に統合して一つの生物を構造するのであるが、同様に神は宇宙すなはち物的世界と極めて密接に統合し、一つの完体を形造るのである。しかしアウレリウスは神と物的宇宙とを同一の物とは見ず、ただ人間の肉体と魂とを一つとして観るといふ程度に止まつた。彼は神の絶対性に関して思惟しなかつた。人間が会得し得ないものに時間を浪費することは、彼のやり方ではなかつた。彼は神が存在して万物を支配し、人間の智識は神の性質を知るに不十分であるといふことに満足した。
 之に由つて之を観れば、宇宙は神(Pronoia)の摂理によつて統制せられて居り、万物は賢明に秩序立てられてあるといふことになる。宇宙の構造および支配に関してアウレリウスが疑ひを表示し又は異なつた説を述べてゐる章句もあるが、しかし彼は何時も自分の根本原理すなはち若し神の存在を承認するならば同時に神が万物を賢明良好に秩序立てることも承認しなければならぬといふ持説に立返るのである(第四篇二十七節、第六篇一節、第九篇二十八節、第十二篇五節)。
 しかし若し万物が賢明に秩序立てられてあるとするならば、何が故に世界は我々の呼んで悪となすところのものに充ち満ちて居るか? 若し世界には悪が存在すると言ふ代りに、上に述べたやうに、我々の呼んで悪とするものが存在するといふ表現法を使用するならば、我々は皇帝の答への一部分を既に言つてしまつてゐる訳である。我々は自ら生きる僅かの年月に於て甚だ僅かの事物を不完全に見、感じ、且つ知るので、全人類の一切の知識、一切の経験は、無限の全宇宙に関しては全くの無智である。さてまた、各事物は各々ある意味に於て関係し関聯して居ることを理性は我々に教へるのであるから、抑も悪といふ観念が宇宙の中に存在することは一つの矛盾である。なぜなら若し全体が一つの霊智的存在から生来して、それに支配されて居るとするならば、その宇宙の中にあつて悪に傾き、もしくは全体の破壊に力を添へるものを想像することは不可能であるから(第八篇五十五節、第六篇六節)。万物は不断の流転変化にあるが、而も全体は存続する、太陽系統がその構成部分に分解すると想像しても、而も全体は永遠に若く且つ完全に存続する訳である。
 総ての事物、総ての形態は分解して、そして新しい形態が現はれる。総て生あるものは我々の死と呼ぶところの変化に従ふ。若し死を悪と呼ぶならば、総ての変化は悪である。生ける存在は苦痛を破り、人間は何にも優して最も苦痛を蒙る、なぜなら彼はその肉体と霊智的部分との双方の苦しみを受けるからである。人々は又相互間からも苦しみを受ける。そして恐らく人間苦の最大の部分は、己れの同胞兄弟と呼ぶものから出てくる、アウレリウスは言ふ(第八篇五十五節)……「一般的に言へば、邪悪は宇宙に対して少しも害をなさぬ、細別して言へば、一人の人間の邪悪は他の者に害をなさぬ。それが害をなすのは唯自分の欲するがまゝに直ちにその邪悪から逃れられる力を自分に持ちながら、猶ほ且つその邪悪を保つてゐる人だけである」。この初めの部分は、全宇宙が何等の悪をも又害をも支持し得ないといふ教理と完全に遵合して居る。第二の部分は、我々人間の権限内にないものには何等の悪もないといふストア学派の教理によつて説明されなければならぬ。他の人から我々が蒙る非違は、その与ふる者の悪であつて我々のものではない。
 エピクテータスはそのエンキリヂオンのうちで悪の問題に関して、小論を試みて居る、彼は言ふ……「標的はそれを射損じさせる目的で置かれてない如く、同様に悪の性質は宇宙の中に存在しないのである」。これはエピクテータスと馴染まない人々に取つては、十分に意味不明瞭に見えるであらうが、彼は自分の談じつゝある事をいつもよく知つてゐた。我々は標的を射損じるかも知れないが、射損ずるためにそれを置くのではない、神は自身の目的が失敗に帰するために、万物を整頓したのではない。我々が呼んで悪となすところのものは或ひは在るかも知れないが、悪の性質なるものは存在しない。換言すれば、悪は宇宙構造の一部分でもなければ、また事物の性質でもない。若し事物の構造の中に悪の性能があるとすれば、悪は最早や悪ではなく、却つてそれは善である訳である。
 更に今一つの章句を以て、この題目を完結せしめるとしよう。我が皇帝のこれに就て言はんとすることは、次の一節につきてゐる(第二篇十一節)……「若し神々が存在するならば、彼等は汝を悪の中に巻き込まないであらうから、人の世を去ることも必ずしも恐るべきでない。しかし若し神々が存在しないとしたら、又は若し神々が人間の事柄に関心しないとしたら、神々のない又は摂理のない宇宙に生活することは、自然にとつて抑も何であらうか? ところが真実に於て、神々は存在するし、又彼等は人事に対して配慮する、そして彼等は人間が真の害悪に陥ることの出来ないやうに、あらゆる手段方法を人間に賦与して居る。そして、その他の災害(もし有害なものがあるとするなら)に関しても、神々は必ずやそれ相応の支度をして、人間がそれに陥らぬやうな能力を人間に賦与して居る筈である。ところで人間を悪に導くことの出来ないものが、どうして人間の生活を悪くするのであらうか? が、しかし大自然がこのやうな害悪を見逃して居ることは、決して無智からでも不用意からでもなく、又それを妨遏し強制する能力に欠けてゐるためでもないし、又善悪の事象が善人や悪人に無差別に降りかゝるといつたやうな、非常な大錯誤も、能力の欠乏とか技倆の不足とかから出来する訳では決してない。然しながら、たしかに死生、毀誉褒貶快楽苦痛等、これら一切の事象は善人にも悪人にも平等にふりかゝり、而もこれらは人格を改善もせず改悪もしない。故にこれらの事象は善でもなく又悪でもないのである」。

(次回:つづき)

その他

著作権切れの作品ですが、利用される際はできるかぎり底本と対照してください。責任は負いかねます。旧字体は新字体に改変しています。仕様上、割り注や字下げなど再現できていない箇所があります。

底本:『世界大思想全集3』春秋社(1927)
著者:マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)
英訳:ジョージ・ロング(1800-1879)
和訳:村山勇三(1887-1958)

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