『文學界』3月号、新人小説月評に腹が立ったという話

『文學界』3月号、新人小説月評で、『文藝』春号に掲載された「盤古」が取り上げられていた。それを読んで、評者にとても強い不信感をいだいた。
「盤古」は、人間の神経系が、微生物を介して神経伝達物質への作用を伴う言語にハックされ寄生されるという話で、作中直接そう書いているのになぜだかそうは読まれていない。
古谷利裕・小林久美子両氏ともに、書かれたことをそのまま読まず、「自分の理想の小説」という主観的なものさしをあてがいながら感想を書いているようで、指摘内容が非常に恣意的だと思った。これはプロの仕事ではないと思った。
二人の指摘内容およびそれへの反論を、以下、備忘も兼ねて記載しておく。

まずは古谷利裕氏の評から。

■古谷利裕の評(全文引用)
樋口恭介「盤古」(藝)。あらゆる個別性(例えば暴力の個別性、僕のエミリーへの暴力と、国家による人工洪水=大量虐殺の質の違い、等)が、「言語」の一元性へと調和的に還元されるというヴィジョンには抵抗を感じる。もし、言語の一元性の元にあらゆる記憶が永遠に反復されるならば、調和的な愛の記憶だけでなく、個別的な恐怖や苦痛や憎悪もまた永遠に反復されるのではないか。(古谷利裕「個別性」『文學界』3月号、306ページ)

なぜ本作では調和的な愛の記憶だけが反復されるのか、という疑問に対する答えは、以下の通り、作品内にすでに直接的に書かれている。

愛の物質と言われることもあるオキシトシンと、神経を活性化させ興奮と陶酔をもたらすオピオイド系の組成物を彼らが放出するのは、彼らが無害な存在であることを、宿主たちに知らしめるための生存戦略であったことは想像に難くない。(樋口恭介「盤古」『文藝』春号、173ページ)
目が覚めると、僕の身体は後悔の感情に支配されていた。傷つけてしまったエミリーへの慈愛の感情で満ちていた。それらの感情が、割れたビーカーから混入した微生物たちと、微生物たちが放出するオキシトシンとオピオイドによってもたらされたものであるということに、僕ははっきりと気づいていた。(樋口恭介「盤古」『文藝』春号、174ページ)
僕らは言葉の中で言葉を交わし、言葉の中で、混ざり合う、同一の生命体となり、僕らはオキシトシンとオピオイドに満たされた永遠の海の中で、この上なく幸せを感じている。(樋口恭介「盤古」『文藝』春号、176ページ)

これらの記述から、書かれたことを素直に読めば、本作の語りはオキシトシンとオピオイドに現実認識を変容させられた、「信頼できない語り手」の一人称によるものであることがわかるはずである。要するに本作は、「調和的な愛の記憶だけが反復」されることを求める微生物たちが、語り手の神経系に作用し語り手の現実認識を奪った結果、「調和的な愛の記憶だけが反復」されるよう語られているという小説なのだ。
古谷利裕は上記の説明に意図的に触れないことで、作中の解は伏せ、代わりに牽強付会な感想を展開しているのだと言わざるを得ない。きわめて悪質な読み方だと思う。

次に小林久美子氏の評。

■小林久美子の評(全文引用)
樋口恭介の「盤古」は、曾祖父の日記部分のみで作品を構成すれば、三作品内ではベストになっていたはずなのに、痴情のもつれを導入することで陳腐化し、宇宙人の到来によって珍品と化した。(小林久美子「薄皮饅頭としての小説」『文學界』3月号、308ページ)

曾祖父の日記はそもそも宇宙人である言語≒微生物≒人類によって書かれたという話であり、宇宙人≒言語≒微生物≒人類がなければ曾祖父の日記はない。そして痴情のもつれ(?)がなければ語り手の体内に微生物は混入せず、神経系がハックされることはないので、曾祖父の日記を含む本作の虚構世界を基礎づける、語り手≒信頼できない一人称の語り/宇宙人≒言語≒微生物≒人類という前提となる構造は得られなかった。
語られた内容をそのまま素直に受け取れば、宇宙人がいなければ、痴情のもつれ(?)がなければ、この小説は書かれていないということになる。むろん、作中作である曾祖父の日記も書かれていない。事態は氏の指摘とは逆の順番に起きているのだ。
小林久美子の上記の指摘は、「私はこの作品の論理がまったく追えておらず、作品の構造を理解できていません。なんとなく気に入った断片とそうでない断片が目に入っただけです」と言っているようなものだと思う。批評の仕事をするにあたって、こうした読みを堂々と開陳してしまう自分を、深く恥じるべきだと思う。

今回は、取り上げられているのが自分の小説だから指摘の恣意性に気づいたが、この人たちは他の作品にもこんな雑な読み方と批評をしている(かもしれない)のかと思うと恐ろしくなる。
二人とも、その小説がなぜそのようなかたちをしているのか、もっと考えながら小説を読んだほうがいい。全ての小説にはそのように書かれた/そのようにしか書かれることのできなかった理由がある。小説をなめるな。

小説内に書かれた事実に基づき、その小説がそのかたちをしている理由を推理してゆくこと。それが最低限の批評家の仕事だと僕は思う。
それができないのなら――自分に読めないことを読む努力をせず、読みたいことだけ読みたいのなら――、批評家として批評の名を騙って偉そうに何かを言うのをやめて、ただのいち読者として、別のどこかで好き勝手に感想を言えばいい。

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SF作家、会社員。単著に長篇『構造素子』、評論集『すべて名もなき未来』。その他文芸誌等で散文の執筆。会社員としては外資のコンサル会社でマネージャーをしていますが、最近はAnon Inc.というベンチャー企業でCSFO(Chief Sci-Fi Officer)の仕事も始めました。