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平木茂樹さん -地域で繋げるバトン-

『To Be Dozen』プロジェクト
 2020年から現在まで、新型コロナウイルスの影響で島前地域の多くの人々の生活や交流に変化があったが、この変化は島前地域の魅力について深く考える一つのきっかけにもなったのではないだろうか。
 そして、この島前地域はこれから、さらなる変化を遂げていくことだろう。 そんな今、「働く場所が島前である」「学ぶ場所が島前である」「人生の1ページを刻む場所が島前である」意味はなんなのか。「島前が島前である」ためには何が大切で島民は何を願うのか。そんな島前地域の人々のストーリーと想いをのせた記事を作りたい。そして、これから私たちはどこへ向かうのかを皆さんと一緒に考えたい。             
                    隠岐島前高校2年 高橋恭介

平木茂木(ひらき しげき)
1949年生まれ・知夫村出身 / 1967年 大阪の食品会社に就職 / 1971年 知夫村へ帰郷 / 1999年 知夫村助役就任

知夫でその人の名前を出すと、皆さんが笑顔で、「あの人は面白い人だよ〜。一度話してみるといい」と、口を揃えて一言。あまりにも皆さんの反応が同じなので、お会いしてお話を聞く前から、平木さんが”知夫を愛し、知夫に愛されている人”なのだということが容易に感じ取れた。

そのためとても楽しみであったし、平木さんのご自宅に着く頃には、私はもう取材モードに入りつつあった。しかし、初めましての挨拶を終えて私が案内された部屋にあったのは、「待ってました」とばかりに美味しそうな湯気を漂わせる大盛りのカレー。そのときにはなんとなく、皆さんが仰っていたことがわかった気がした。

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生粋の知夫人

平木さんは知夫村で生まれ、高校生活を島後で、社会人最初の4年半を大阪で過ごした期間を除けば、それ以外を知夫村で過ごしてきた。平木さんは「団塊の世代」と呼ばれる時期に生まれ、毎日自然に触れながら育った。

「あの頃は、まだ肌電球で、決まった時間しか電気も使えなかった時代だわ」と懐かしむ。この頃はまだ知夫村の人口も2000人以上いた時代、知夫弁も今より頻繁に使われており、平木さんもその達人として地域の皆さんに知られている。中学卒業後は一度故郷を出たが、平木家の跡継ぎであった叔父が戦死したのをきっかけに知夫に戻ってくることになった。

知夫村伝統の蛇巻(じゃあまき)と平木さん

大阪では食品関係の仕事に就いていた平木さんだが、帰郷した際には、その時たまたま募集をしていた、知夫村役場の職員の枠に飛び込んだ。小中学校時代は勉強そっちのけで農業の手伝いをしていたという平木さんだが、役場に入ってからはいろいろな勉強をしながら、たくさんの部署を回ることとなった。最初は総務課から始まり、次に財務課、そして、保健福祉課に産業課、保育所の所長まで務めたことがある

「産業課で産業課長をやっとったときは、当時の村長との間で意見が衝突してな。春休みから帰ってくると机がなくなってたこともあったな(笑)」と、当時のエピソードも面白おかしく語ってくださる。本当にいろいろな部署でのお話が飛び出てくるので、こちらも整理するのが大変なほどだった。

しかし、それと同時に、それだけ平木さんが知夫のことを深く理解されている人物だということが伝わってきた。また、平木さんは50歳のとき、助役(現在の副村長)に抜擢され、知夫村の行政の中枢を担うことになった。当時はちょうど「平成の大合併」の真っ只中だったため、知夫村でも合併の話が上がり、平木さんは幹事長として、海士町と西ノ島町との三町村の合併協議会に参加した。

島前について記載された、いくつかの書籍にも記述があるが、このときの島根県は、各市町村に対して、「積極的に合併を考えてほしい」と強く促していた。夜の22時を過ぎた頃に県から「どうにか合併をしてほしい」と、電話がかかってきたこともあったという。「三町村は文化も言語も全然違うし、海で隔てられてるのもあるからな、あまり交流もなかったんだ。合併に割と積極的だった人もおったけど、やっぱり難しいものがあってな」と平木さん。

その後、「交流を増やそう、島前の一体感を出そう」という県の思惑から、補助金が出たことで、内航船の料金が片道500円から現在の300円に値下がりし、便数も増えたそうだ。しかしながら、現在も海士町、西ノ島町から知夫村に訪れる人はそう多くはない。

「昔は交流がなかったおかげもあって合併しなかったけどな、今は交流がもっと必要だと思っとる。やっぱり隣人だからな。もっと開かれた関係になっていったらおもしろいと思うし、発展のためにも必要だろう。そこは行政同士が変わっていかないといけないところだな」と、現状維持が地域の衰退につながるのだということを熱心に語る。

仁夫の海にて

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スーパーボランティア

大変であっただろう知夫村の行政から現役を退いた後にもなお、「まだまだ余裕だわい」というばかりに働き回っているのが、平木茂樹さんという人だ。

とくにお金をもらうためにやっているわけではない。ではなぜか。助役のときにした経験が今の考え方を作っているそうだ。「あぁいう合併みたいな話は住民の意見なしじゃ決められんだろ。だから集会なんかをして、色んな人に世話を焼いてもらったんだよ。だからそこでお世話になった分、今は自分の能力の範囲内で出来ることをやっていきたいと思っとる。もちろんボランティアの気持ちでな」そう語る平木さんは今、住民の皆が認める知夫のスーパーボランティアだ。

役場の監査、お弁当配り、知夫弁の特集の記事を書き、地域おこし協力隊の若者が「農業をやりたい」と言えばマンツーマンで畑の手伝いを引き受ける。その畑での姿は”従業員”かと疑うほどだと住民の方々は言う。「なぜそんなに人に尽くすことができるのですか」と尋ねれば、「大したことはやってないよ、自分の体が動くうちは何かしなくては。何もすることがなくなっては困るからな。『今日は何をしよう』と考えて何もすることがなかったら張り合いがないだろう」と答える。

私は素直に「かっこいい」と感じた。これは島前地域全体に言えることだが、この”世代を越える助け合いのバトンリレー”のような文化が、まだ深く残っているということは、やはり誇るべきことであり、それを受け取った私たちの世代もこの想いを後世に残していかなければならない。私たちにはその義務があり、それこそが”地域で暮らす”ということなのだろう。

「多分、島で生まれ育った人たちは『こんなもんだ』と思ってるかもしれないけど、島外から来た人は、我々が気がつかんことに気づくかもしれんし。それと一緒に”島ならでは”のものを色々学んでいってほしいなと思うけどな」と平木さん。生まれ育ったものだけでは地域はいい方向に向かわないということを仰っていた。新たな価値観に触れ、”まぜる”ことで、また新しい価値が生まれる。それは「出身者とIターン」というカタチだけではなく、「島と島」の間でも言えることではないだろうか。

ご自宅にて


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「知夫がいい」

インタビューの最後に平木さんの口からこんな言葉が溢れた。「知夫の外から帰ってきた人たちは方言を聞いたりしてすごい癒されると思うぞ。『あぁ知夫に帰ってきたな、やっぱここがいいな』みたいな感じだ。方言は距離をすごく縮めてくれるからな、最近はわざと方言を使ったりすることもある。そうすると、一気に場が”どーん!”と盛り上がったりしてな。

多分、いずれこの方言は無くなることになるし、それは仕方ないことだと思う。だから違うかたちで子供たちには”知夫らしさ”を学んでほしい。その手伝いを我々がしていくんだ、今日のカレーもその一つだな」と思いを伝えてくださった。私は「帰ってきたい」と思った。あなたが帰ってきたいと思う地域は、どんな地域だろうか。

(左:奥さん)ご自宅にて


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