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第8回ちば映画祭上映作品 反対になった電池が光らない理由だなんて思えなかった 始発待つ光のなかでピーナツは未来の車みたいなかたち その1

20代の、何歳だったかは思い出せないころ。当時、東中野にあった映画監督の熊切和嘉さんの部屋で、布団のなかにいた。ミュージシャンの竹原ピストルさんと抱き合って、ベッドシーンの練習をしていた。熊切さんの掛け声のあと至近距離で見つめ合うと、竹原さんは毎回吹き出して、熊切さんも腹を抱えて練習にならなかった。古泉智浩さんの漫画『青春☆金属バット』を原作にした映画の準備がはじまったころで、そのとき動けるスタッフは私だけだった。主演の竹原さんは芝居が初めてで、その練習相手として、主人公以外のすべての役をやり、すべての場面を練習した。ベッドシーンは坂井真紀さんの代わりだった。終えて、3人でラーメンを食べにいった。

『河の恋人』が動き始めたのも、そのころだった。30歳になるまでは助監督をやろうと決めていたけれど、あとで振り返ったときに、20代のころに気持ちを入れて作った映画が1本もないというのはさみしい気がして、動き始めた。ぴあフィルムフェスティバルに応募したら、1次で落ちた。知らせを受けた日は、青山にあるテレビ制作会社でNHKの2時間ドキュメンタリー番組のADをしていた。落ち込んで屋上に出た。まだできて数年の六本木ヒルズばかりが目に入る屋上だった。

何度も試写を開き、売り込んでも日の目を見なかった『河の恋人』。その数年後に、俳優の杉山ひこひこさんの紹介で、当時池袋シネマロサの支配人だった勝村俊之さんにDVDを渡す機会があった。上映が決まった。勝村さんは、君のような人が現れるのを待っていたと言った。でも、ただでは上映させてくれなかった。いまからもう1本新作を撮れとのことだった。1本だけではすぐに忘れられる。2本同時公開にして、名前を覚えてもらおうと言った。新しく脚本を書いた。その脚本を気に入ってくれた小さな映画会社のプロデューサーが、企画を引き取ってくれて、商業映画として動き出すことになった。『にびいろ』というタイトルで、製本した脚本を文化庁に送った。審査が通り、1000万円が下りることになった。いまはどうかわからないけれど、当時、1000万円の助成を受ける映画は5000万円以上の規模にする必要があった。半年間、プロデューサーだけでなく私も営業に回った。助成金は年度ごとのものだから、年度内に完成して試写を開かなければ受け取れない。資金は1円も集まらなかった。ちょうどリーマンショックの年だった。企画は頓挫した。1年間、どうやったら4000万円を集められるかばかり考えていた。結果、なにもなくなった。プロデューサーは企画を手放したけれど、同時に、脚本の権利もそのまま戻してくれた。100ページ以上あったものを、10ページ前後のメモ書きに近い脚本に書き直した。もう一度動き出すには、そういった何かの思いきりが必要だった。タイトルを『ひとつの歌』にした。

2009年の夏ごろ、『ひとつの歌』の準備を始める前にトレーニングをした。5本の短編映画をそれぞれ1行の脚本で作った。「珈琲をふたつ頼む」、「煙草の火を借りる」、「写真を撮らせてもらう」、「彫刻を彫る」、「縁側に座る」。決めごとはそれくらいにして、現場にみんなが集まったところから、全体を決めていく。

『ひとつの歌』の撮影は、飯岡幸子さんにお願いした。ほとんど面識のなかった飯岡さん。一度戻っていた地元の九州から、ふたたび東京に出てきたタイミングで私は電話をしたらしい。ロケハンをしているとき、飯岡さんは10ページくらいしかない脚本を読みながら、何を見ればいいのかわからないと言った。顔は怒っていた。ある夜に電話して、私はいま飯岡さんをこわがっています、萎縮しています、萎縮したくないですと伝えたら、笑ってくれた。怒っているわけではなくて、困っているだけだと言った。それ以来、いつも飯岡さんに撮影をお願いしている。飯岡さんはよく、大事なことを簡潔に言う。別の言い方をしようとして、同じ言葉をただゆっくりと繰り返すだけのときがある。飯岡さんが2回繰り返して言うことは、大事なこと。

『ひとつの歌』の編集は、大川景子さんにお願いした。金沢21世紀美術館で、映画監督の諏訪敦彦さんが小学生対象の映画ワークショップをやったとき、スタッフとして呼ばれたのが大川さんと私だった。その少し前、私は諏訪さんの『ユキとニナ』の日本ロケに助監督として参加していた。そのときのチーフだった是安祐さんから、子ども相手のワークショップよくやってるよね、諏訪さんがスタッフ探してるんだけどどうだろうと電話があった。行きますと答えた。『ユキとニナ』の脚本が好きだった。ト書きが疑問形で書かれてたり、脚本というより膨大なメモだった。羽田の待ち合わせに大川さんは遅れて、検査所の前で待っていると、係員の人と一緒に遠くから走ってきた。そこから一緒に搭乗口まで走って、飛行機のなかで初めましての挨拶をした。大川さんは『ユキとニナ』の編集助手だった。大川さんを『ひとつの歌』に誘ったのは、たしかその行きの飛行機のなかだった。『遠くの水』の編集を大川さんに頼まずに自分でやったのは、予算の振り分けを考えたときに、飯岡さんと黄さん、音楽のスカンクさんの分しか捻出できなかったから。本当は大川さんに頼みたかった。

『ひとつの歌』の録音は、黄永昌さんにお願いした。『河の恋人』を作るとき、録音技師の臼井勝さんの紹介で、駒込のケンタッキーで初めて会った。黄さんの記憶ではマクドナルド。言葉の少ない人だった。音の仕上げで黄さんの家にお邪魔すると、よく、ご飯がちゃぶ台の上に用意してある。『始発待つ光のなかでピーナツは未来の車みたいなかたち』の撮影で札幌に行ったときは、スープカレーを作ってくれた。いくらみんながおいしいと伝えても、煮ただけですから、誰でも作れますからと言う。『ひとつの歌』のなかで、歌人の枡野浩一さん演じる人物が、ある場面で振り返るとき、大工の音が遠くで響く。金槌が木材を叩く音。

2011年の5月に、私から提案して枡野浩一さんのドキュメンタリーを撮った。当時、ツイッター上で枡野さんが投稿していた詩が評判になり、文藝春秋から詩集『くじけな』として刊行されることになっていた。親しい友人たちに、刷り上がった本を渡して回る枡野さんの1日を映画にして、刊行記念イベントで上映した。ドキュメンタリーだけれど脚本を書いた。1日の話だけれど、2日で撮った。朝、枡野さんが洗濯物を干し、紅茶を飲むところから始まる。家を出て街を歩き、公園で休み、デパートで買い物をし、電車に乗り、吉祥寺から池尻大橋、そのあと水天宮まで行く。帰宅した枡野さんが洗濯物を取り込んだところで映画は終わる。その詩集『くじけな』はイラストと詩を組み合わせた本で、そのイラストを描いたのが、今回のちば映画祭でお披露目上映する新作映画の原作短歌、

始発待つ光のなかでピーナツは未来の車みたいなかたち

を詠んだ後藤グミさんだった。

つづく


※トップ写真は、その5ヶ月後に新宿で枡野浩一さんが撮ってくれた、ヴィム・ヴェンダース監督と私。ヴェンダース監督が手にしているのは、同じ2011年にリトルモアから刊行された枡野浩一さんの掌編小説集『すれちがうとき聴いた歌』(絵:會本久美子)。


第8回ちば映画祭 杉田協士監督特集② “lysリュース(光)の芽吹き

上映作品 『反対になった電池が光らない理由だなんて思えなかった』

     『始発待つ光のなかでピーナツは未来の車みたいなかたち』

予告編

3月21日(月・祝)13時45分から 当日料金1000円

千葉市生涯学習センターにて(千葉市中央区弁天3丁目7−7 JR千葉駅から徒歩8分)

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