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麗らかに #12 忘れてはいけないのだと思い出す

3年前の今頃の時期に
幼稚園から中学までの
同級生のHちゃん が
「東京の病院で、病気で亡くなった」と
彼女のお兄さんから知らせを受けた。

Hちゃんが中学卒業後、どこの高校に行ったのか
その後どこに住み、どんな暮らしをしていたのか
全く知らなかったし
同級生の間で話題に上がることもなかった。

彼女は小学生の頃                                       
特別支援学級の対象児童だった 。
中学校でもそうだったのかは、覚えていない。      体が小さく、とてもおとなしかった。

これを読んだ人が
不快感を抱くことも覚悟の上で書くが

そんな彼女は、当時
いじめっ子達の餌食だった。

私はというと
いじめられているのに
ニコニコ笑っている彼女を見て
クスクス笑うような
そっちのタイプのクズ野郎だった。

いつか謝りたいと思っていた。
許して欲しいとまでは言わないまでも
謝りたかった。

彼女のお兄さんは、電話で

「Hの死を同級生の誰も知らないのでは
Hがあまりに可哀想だ。地元にいる同級生だけにでも、Hのことを知らせてくれないか?」と言った。

私は地元に残っている同級生7~8人に
Hちゃんの訃報を連絡をしたが

「そうだったのか」と、短い返事が来たのみで
一緒に献花やお悔やみを と
名乗り出る人はいなかった。

結局私は、連絡をうけた1週間後の夕方に
一人で彼女の実家を訪ね
お兄さんに香典を手渡し、お悔やみを伝えた。

Hちゃんは、地元の高校を卒業後に上京し結婚。
子供はいなかったが
旦那さんはとても優しい人で
幸せに暮らしていた。
コロナのため面会制限があって
なかなか見舞うことができなかったが
病室に行くと、兄と、兄の家族を心配して
早く帰れと気づかう、最期まで優しい妹だったと
お兄さんが話してくれた。

そしてお兄さんは、帰り際に
私の手をぎゅっと握って

「ゆりっぺぃ、ありがとな。今晩、Hの旦那に、電話するよ。地元の友達が 悔やみ来てくれたよ、
嬉しいよな、ありがてぇよな、って、話するよ。
どうか、H のこと、忘れないでいてくれな」

と、言って泣いた。

私はその時に初めて

私が彼女に謝りたかった理由に気づいた。

私は、ただ自分の為に謝りたかった。
謝ることで、長年の私の中での
モヤモヤ問題が
おしまい になるはずだった。

それは
恐ろしく身勝手で
とてつもなく傲慢な考えだった。


「うん、忘れない」と
精一杯に答えて

握られた手を振り払うようにして
車に乗り込み
逃げるように家に帰った。

彼女は亡くなり
私は生きている。

私は生きている限り
彼女のことを
そして
自分のしたことを
忘れてはいけないのだ と
思った。


後日、東京に住むHちゃんの旦那さんから
私への心のこもった直筆のお礼の手紙が

間違いなく香典返しの金額設定以上の
返礼カタログと一緒に送られてきた。

あちこちが
グサグサと刺されたような
痛みを感じた。

あの時から
たった3年しか経っていないのに
私はもう、彼女の命日を忘れてしまった。

けれど
いろんなモノがまとわりついて
払っても洗っても不快感が拭えない
この時期になると

あの時の痛みを
忘れてはいけないのだと
思い出す。









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