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日吉の酒と広末と草サッカー

「もうさあ、オレ、バケツで酒、一気に飲み干してよお。超やべえよお。」
 荒川にかかる鹿浜橋のたもとにある河川敷にある土のグラウンドでサッカーボールを蹴った後、ファミレスで失われた水分を取り戻さんとコーラをがぶ飲みしながら、そう豪語しているのは、ピッカピカの大学一年生となったばかりの日吉慶次である。
 中途半端な学力、地に落ちた運動能力、文化祭女子参加率ゼロパーセントで、小学校卒業以来およそ異性とは家族か事務員の紫色の髪の色のおばさん、道徳を教える理事長の妹としか話したことのない者の溢れる男子高。
 須く一回戦負けのくせに、ただただ運動部に所属しているというだけで体育会系を自称する連中。他校の文化祭に行き「女と話した」と自慢する軟派な連中。そんな奴らをパージすると、青春とは全ての現実を排せざるをえず、妄想を極限まで昇華させるほかなかった我ら文化部及び帰宅部集団が残る。
 そんな集団であっても、開幕したばかりのJリーグには目一杯踊った。結果として、繰り広げられたのは弩級の下手の横好きによる休み時間サッカー「Hリーグ」であった。
 上を目指して切磋琢磨せずとも、校庭のラバー舗装には我らが汗は校庭のラバー舗装に染み込む。制服にも上履きにも染み込み、それはもうとにかく濃厚な男達の汗腺から滲み出る汁の臭いを充満させ続け、地下鉄サリン事件という日本の現代史上における最悪のテロ事件発生時であっても、とりあえず電車動いていないからと時間潰しにHリーグをするほどに、我々はサッカーに熱心であった。
 各々受験勉強に勤しむためという名目で、高校三年時は午前中のみの授業であった。それをことをいいことに、午後は予備校の時間までHリーグに明け暮れた結果、Hリーグメンバーは軒並み大学受験に失敗したのだが、このHリーグの傀儡のリーダーであった日吉は我ら集団のほとんどに先んじて大学生になったのであった。
 日吉はHリーグの傀儡リーダーとしての自負からか、先駆者として、早速サッカーサークルに加入して薔薇色のキャンパスライフをキックオフさせていたのだった。
 私もとりあえず第八志望の大学に進学していたが、先輩という存在を蛇蝎のごとく嫌っているがためにサークルには入っていなかったため、日吉の豪語は新鮮であった。
 日吉は、我々を啓蒙する。
「サッカーの全ては胸トラップだ!All you need is MUNETORA!」

 イタリア・ミラノにあるサン・シーロが往年の名選手を記念してスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァと改称されたように、我々をして日吉慶次メモリアルスタジアムと呼んだ鹿浜橋グラウンドでの球蹴りの帰り、都バスで移動して王子駅前の居酒屋、一休で初めて飲み会なるものをした。
 日吉は瓶ビールを注いだキリンビールの刻印の入った小さなグラスを一杯も飲み干さず、以前豪語していた酒豪の片鱗は見せてくれなかった。
 その結果として彼の全ての発言に疑問を覚えてことから、彼の唯一の教え「All you need is MUNETORA!」もまた、我々のうちで否定されていった。
 MUNETORAとは、彼の肉体にまとわりついた柔らかそうな贅肉による衝撃吸収によって成し遂げられる技術。我々のような贅肉も筋肉もない、日陰で育んだ文化部及び帰宅部育ちの虚弱なシティーボーイの肉体では、硬いサッカーボールの衝撃に耐えられるはずもない。あばらが折れる。

 私が進学した大学では二年生時からゼミなるものがあり、当然のことながら、そこには蛇蝎のごとく嫌う先輩なる人種が複数もいた。
 経営なんて興味関心もまるでない学問。今の世の中でいう意識高い系を煮詰めたような本庄さんという一年上の先輩は人生訓を毎日のように垂れる。
 第八志望で、やりかった学問でもないしなあと悶々としているうちに、大学受験をやり直したくなり、「きみは経営とかに向いてないから、全力で応援する」というゼミの担当教官の宮野先生の応援の声に後が引けなくなり、サッカーしている場合ではないよなあと、数年遅れの大学受験生となる。
 Hリーグは自然消滅した。

 自らがサッカーの下手の横好きであることをすっかり忘れ、都の西北はバカ田の隣にある大学を第一志望と定め、受験勉強に一心不乱という割には、半ばニートのような生活を送っていると広末涼子が、どうやらバカ田の隣にある大学の教育学部に進学するというのだ。
 神無月の出雲において、八百万の神々の侃侃諤諤たる議論の結果であろうか。私は近々始まるバカ田の隣での真のキャンパスライフを想像した
 大教室の最前列にて真剣な眼差しで講義を受ける広末。その隣には、整った顔立ち、口元は微笑みをたたえ、背筋はピンと伸び、清潔感と爽やかさを惜しげもなく溢れさせている好青年、つまり私がいる。

 バカ田の隣の大学当局による暴虐の限りを尽くした不当な排除(受験科目に世界史がなく、古文があり、英語の辞書持ち込み不可)により、受験した三学部すべて不合格となり、、私を暖かく受け入れた大学(受験科目に世界史があり、古文はなく、小論文で、英語の辞書持ち込みは英和・和英ともに可)に進むこととなった。
 結果として、私と広末は一度たりとも私と邂逅すること叶わなかった。私と出会う機会を逸した広末は強烈な個性と独特な存在感を放つキャンドル・ジュンと結婚することとなるのは周知のことである。
 これを現代のハムレットとして、涙するはただ私のみ。

 さて、バカ田の隣大学当局の弾圧によって、絶望を通り越した放心した目をして受験会場の教室から退出すると、リズミカルな打楽器がドンドコドンドコ鳴り響いていた。
 バカ田の隣大ラテンアメリカ研究会の、受験生を励ますサンバの陽気なリズム。
 八百万の神々の決裁を裏切った私は、心を日本には置いておけず、陽気な調べのブラジルへ逃げざるを得なかった。
 私を暖かく受け入れた大学には、幸いにもバカ田の隣大学のラテンアメリカ研究会と同名のサークルがあり、入学式の翌日、早速部室を訪問し、加入を直訴した。
「まあ、いいよ」と鋭い目をした女先輩が迎え入れてくれた。
 広末涼子との悲劇的別離を乗り越え、ついに新しい大学での薔薇色のキャンパスライフを送る第一歩となる。
「じゃあ、これやって!」と渡されたのは女先輩が私に渡したのは縦笛であった。
 はて、サンバに縦笛があったのか。
 先輩たちが早速演奏し、私は目を閉じた。
 ここは、リオデジャネイロはコパカバーナ海岸か。いや、身体はすぐに宙を飛び立ち、それがブラジルのコーヒー農園で埋め尽くされたブラジルの内部に入り込み、パンタナールの湿原、アマゾンのジャングルもあっという間に通り越し、アンデス山中に降りた。
 先輩たちが奏でた音楽はスペインのコンキスタドールに蹂躙された滅亡したインカ帝国の悲嘆を思わずにはいフォルクローレであった。
 私は、コンドルを飛ばすつもりはないのだ。
「じゃあ、やってみて。」
♪プピッ、プピー、プッ……
「え、笛を吹けないの……。まじで……。帰れって言いたいけど、私がとことん鍛えてやるから。とりあえずしばらくはその笛使っていいから、来月には自分で買ってきて。」
 女先輩の練習はどこまでも厳しく、果てしなかった。
 散々な練習後、ヒヨ裏と呼ばれる日吉駅を挟んで大学の反対側にある居酒屋にて、我々の歓迎会をするという。
 私は、タダ酒を日吉慶次のようにバケツで飲まんと思った。すっかり酒に慣れ切っていた私にはとってはどんとこいである。そして、新入生はタダ酒というのはサークルに入ってやらんとする当然の権利である。そして、厳しい女先輩の財布を傷みつける意趣返しにもなる。
 散々にして酒を飲み終わり、、大いに満足していると、女先輩は我ら新入生に言い放った。
「今日は割り勘だから。」

 こうして、私は二回目の大学生活もサークルに所属することはなかった。
 しかし、そんな大学生活はあまりに暇だということで、フランス語のクラスで友達になった黒田を誘って、そしてHリーグからはバカ田の隣大に進学していた池井に声を掛け、それぞれが周りの友人を引き連れてきて、インターサークル的な草サッカーチームが発足した。
 青春とは全ての現実を排せざるを得ず、妄想を極限まで昇華させるほかなかった我ら文化部及び帰宅部集団の一員が主催したので、女子学生の入り込む余地のない硬派なサークルであった。

 大学生だけのチームは人数編成に困り、インターネット隆盛の波に乗り、社会人に幅を広げ、それぞれのライフステージの変化でメンバーがほとんど入れ替わりつつも、いつの間にかほぼシニアチームとなり、今に至る。
 先日の試合。
 私と同じく遅刻してきた、正式なメンバーではないがかなりの頻度で助っ人に来てくれる父島さんと、すでに始まっている試合を余所に、小田原征伐の豊臣秀吉と徳川家康のごとき、連れションをしていた。
 コロナ対策で仮設トイレで封鎖された便器を挟んで、会話する。
「何年か前に引退試合をしたんですけどね。でも、結局いまもサッカーをいろいろなところでしてる。引退試合をしてくれた後輩たちが口々に言うんですよ。引退詐欺、引退詐欺だと。」
 年齢はおそらく同じくらいであるが、父島さんは大学の公式サッカー部の現役コーチをしている、下手の横好きのチームにはそぐわない人である。
 引退……。
 我々の隣のグラウンドでは、六十代と思われる白髪のおじいちゃんたちが試合をしている。
 そんな年齢になるまでサッカーをしている自分の姿はまるで想像できない。しかし、引退し時も全くわからない。
 振り返ってみて、辞め時は三回あった。
 新婚による妻の圧力こそ乗り切ったものの、長男が生まれて一年はほぼサッカーができなった。
 この時が最初の辞め時。
 次に、一昨年の台風によりホームグラウンドが全く使用不能となり、試合の開催に苦慮するようになったことが二回目。
 そして、このコロナ禍が三回目だろうか。
 二十年間懇意にしていた対戦相手のチームも、コロナ禍を境に連絡がつかなくなった。
 しかし、結局コロナ禍であっても、我がチームの活動は止めなかった。

 三年前に会心のヘディングシュートを決めて以降、元来の運動神経の根本的な欠如に加え、体重の増加、否定しきれない体力の衰え、関節の可動領域の衰えを痛感するばかり。
 二十年経っても、日吉がサッカーサークル加入後一ヶ月で得た気づき「All you need is MUNETORA」にたどり着くことはできない。
 しかるに、引き際がまるでわからないから、これからも下手の横好き草サッカープレイヤーをズルズルと惰性でやりつづけるのだろう。

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