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小説「生きている人魚」⑤


「坂田、おいっ」
 しゃがみこんで両肩をつかみ、激しく揺さぶった。
「う、うう……」
 半開きの口からうめき声がもれた。まさか死んでいるのでは、と不安になっていたので、ひとまず安堵した。
「しっかりしろ、大丈夫か」
 坂田はポロシャツに綿パンという格好だったが、どちらも埃や泥、得体の知れない液体などで汚れきっており、元の色もわからないくらいだ。思わず鼻をつまみたくなるような異臭が漂っている。いつもこざっぱりとしていたあの坂田がこんな姿に、と思うと胸がしめつけられた。
「……ナカ……?」
 目を少しだけ開けて、かすれた声で言った。
「そうや、来たで。お前、なんでこんなとこに入っとるんや」
 僕は坂田を見つけられた嬉しさに、思わず笑ってそう言っていた。坂田はかすれ声のまま答える。
「俺……隠れとったんや……」
「隠れてた? 何や、それ」
 首をひねりつつ、まだ半分押入れに入ったままの彼の体を引っ張り出した。
「さあ、帰ろうや。人魚なんておらんかったやろ。もう、ええやろ?」
 とりあえず、襖にもたれかかるように座らせてやる。坂田は体に力が入らないようで、僕にされるがままになっていた。彼の体は痩せ衰え、ひどく軽かった。
「すまん……」
「謝らんでええよ。詳しい話は落ち着いてから聞くから……とりあえず、ここを出ようか」
 だがこの衰弱ぶりでは、ちゃんと歩けるかどうかあやしかった。まずはタクシーを呼ぼうと思った。
「ちょっと待っててくれ。俺、電話して車呼んでくるから」
 その間にまたどこかへ消えたりするなよ、と軽口をたたいてみた。昨日から随分心配させられたが、こうして無事に見つけられたことで、すっかり明るい気分になっていた。何もかも一件落着だと思っていた。
 ところが。
「――もう、無理やで」
 突然、妙にはっきりした口調で坂田が言った。
「え?」
「もう帰られへん……俺も、お前も」
 薄暗がりの中、うつろな二つの目があらぬところを見ている。僕は異様なものを感じて、体を強張らせた。
「ナカ、すまんな……ほんまに」
 またかすれた声に戻って、坂田はうなだれた。
「でも……逃げろって書いといたやろ……せやのに、なんで……」
 ノートに記されていた、歪んだ大きな文字が脳裏によみがえる。
 「ナカ かえれ にげろ」――。
 気味の悪さを押し殺し、僕は無理に笑ってみせた。
「確かに書いてあったな。でも、そもそもお前が来いって呼んだんやろ」
 坂田はかすかに首を横に振る。
「間違ってた……お前を身代わりにしようなんて……」
「……え?」
「この家はな、ずっと寄生されてたんや……何人もの子を寝たきりにして死なせ、代わりに富を与えてもろて……昔話ってのはいい話ばかりやあらへん、本当はおそろしい話の方が多いんやって、よう知ってたはずなのにな」
 坂田の顔に歪んだ笑みが浮かんでいる。
「でも、まさかほんまにこんなことが……俺も、人魚に縛りつけられて。もうあかん、足腰萎えてしもうた」
 足腰萎えてしもうた、という言葉でよみがえる。タクシーの中で「人魚長者」の話を聞いた時に覚えた違和感と気味の悪さ。
 昔話の中で、人魚を殺そうとした欲深な兄は、足腰が萎えて寝たきりになってしまった。それだけなら勧善懲悪の物語の枠に収まるが、現実には、高橋家に代々、不自由な体の子供が生まれていたという。人魚から幸運を与えてもらう代償ではないか、とかげでささやかれていた子供たち……まさかその子供たちは、生け贄として人魚に捧げられた存在だったのか。そして坂田のノートに書かれた、「寄生」という言葉。
 ――人魚は守り神ではなかった。人間に寄生して生きる化け物だったのだ。
 そんな考えが、瞬時に頭の中を駆け巡る。気付けば、肌が粟立っていた。
 「裏切り」「逃げられない」「身代わりが必要」――。
 二週間前の夜、逃げていった高橋家の当主。彼は何か、人魚にとって「裏切り」に当たることを、禁忌を犯してしまったのだろう。そのため家は没落した。しかし人魚も次に寄生する相手がいなくては、高橋氏を手放すことはできない。そこへ坂田が現れた。呪縛の解けた高橋氏はこれ幸いと逃げ出し、そして坂田は代わりに人魚に取り憑かれ、縛りつけられ、そして――。
 ――お前を身代わりにしようなんて。
 坂田が自分を呼んだのは、そういうことだったのか。呆然とした頭の隅で、悟る。
 「もう帰らないから」と奥さんに電話した理由もわかった。それは、家族を守るためだったのではないか。奥さんが坂田を探しに来てこの家まで辿りつけば、一家全員、人魚の虜にされてしまう。それを避けるため、わざと突き離すような連絡をしたのではないか。
 代わりに僕を、身代わりにしようと考えた。「待っている」と言えば、ナカなら必ず来てくれるはず。「人魚」という言葉を出せば、なおさら興味を持って来るはず。そう考えて、あの電話をしたのか……。
(そうだったのか? 坂田……)
 坂田を見やるが、力なく襖にもたれて座っている彼は、首を垂れて身じろぎ一つしない。
 僕はそこで、慌てて思考を停止させた。
 いったい何を考えているのか。そんな化け物など、この世に存在するわけがない。人魚なんて架空の生き物だ。こんなことを考えるとは自分まで何かに取り憑かれてしまったかのようだ。
 馬鹿馬鹿しい、と笑ってみようとしたが、顔がひきつって動かない。背中を嫌な汗が伝ってゆく。
(……ともかく、ここから出なくては)
「坂田、しっかりしろ。ほら、立てよ」
 肩をつかみ、激しく揺さぶる。だが坂田はうつろな眼差しを宙にさまよわせるばかりだった。
「もう、無理や……昨日までは、まだ動けたんやけどな」
「そうやな。お前、駅まで行って電話してきてくれたんやろ。昨日まで元気やったんやないか、歩けるやろ、ほら」
 励ましの声をかけるが、坂田は歪んだ笑いを浮かべて、首を振った。
「昨日、な……あの時、逃げたら良かったんやな……でも、あかんねん。お前を呼び出す電話かけて、そのまま逃げようとしても、どうしても足が言うことをきかなくて。これが高橋の言うとった呪縛か、ってようわかったわ」
「いいかげんにしろ、おい、はよ立て」
 苛立ちと不安のあまり、つい強い言葉を発する。だがそれも坂田の耳には届かないらしい。
「……帰ってから、なんとか気力振り絞って、逃げろ、って書いたんやけど。でも見つかってしもて……裏切った、って、あれ、が……」
「あれ、って、おまえ」
 ――ぱちゃり。
 ふいに、背後から先ほどと同じ水音が聞こえてきた。
 はっと振り向くと、床一面に闇が広がっていた。
 いや、違う。それは水だった。どこからか差し込むかすかな光に照らされて、波立つ水面がきらめいている。波が足元まで打ち寄せては、戻っていく。反射的になぜか、湖だ、と思った。
 さっきまで普通の座敷だったはずなのに、敷き詰められていた畳はもちろん、部屋の仕切りの襖も障子も、何もかも消えていた。まるで夕闇のような薄暗い空間の中、どこまでも広がる、底知れない暗い湖が出現していたのだった。
 思わず立ち上がった僕の足元に、ぱしゃり、と大きな波が打ち寄せる。スニーカーの生地に水が浸(し)みる。冷たかった。本物の水だった。気付けば、先ほどまで屋根を叩いていた雨音が聞こえない。ぱしゃ……ぱしゃ……と湖の静かな波音だけが響いている。
 背後から、坂田のしわがれた声がする。
「ほら、来た……」
 ちょうど湖の中央あたりに、小さな人影が上半身だけのぞかせているのが見えた。薄暗がりの中でおぼろげなシルエットが揺らめく。それは、長い髪の女のようだった。
 ぱちゃり、とひときわ高く、水音がした。目を凝らすと、女の上半身から少し離れたところに、大きな魚の尾が突き出ていて、それが水面を叩いたのだった。
「な? いたやろ、ほんまに……」
 坂田がかすれきった、だが、どこか嬉しげな声で言う。何が、とは問い返すまでもない。僕は言葉を失ったまま、その場にへたり込んでしまった。
 女は――人魚は、そんな僕のそばまで、ぱちゃり、ぱちゃり、と水音を立てながら泳ぎ寄ってきた。すぐ目の前の波打ち際まで来ると、両手をついて下半身を重たげに水の中から引き上げ、その全身をあらわにした。
 僕と人魚は、真正面から向かい合っていた。三十センチも離れていないところに、人魚の顔がある。僕はただ呆然と、それを見つめるしかなかった。
 人魚はそばで見ると、思っていたよりずっと小さかった。二、三歳くらいの幼女の大きさだ。しかしその顔立ちや成熟した上半身は大人の女性そのもので、まるで精巧に作られた人形めいて見えた。
 人魚は切れ長の目を縁取る長い睫(まつ)毛(げ)をしばたかせながら、僕を凝視している。黒目がひどく大きく、白目の部分はほんの少ししか見えない。深い闇を切り取って、そのままぺたりと貼りつけたような目。何の感情も浮かんでいない。
 赤い唇はかすかに開いており、濡れた長い黒髪が白い首筋や背中に絡みついていた。小ぶりな胸、引き締まった腰、そしてそこから下は珊瑚のような薄紅色をした鱗に覆われた、長い尾――ぱしゃり、とまたそれが水をはじく。
 人魚と目と目が合ったまま、微動だにできなくなった。
 何もかも、どうでもよくなっていた。すぐ隣にいる坂田のことさえ、どうなろうともう知ったことではない。僕はただ、この美しい生き物を見るためにだけ、ここへやってきたような気がしていた。そう、子供の頃から望んでいたではないか。人魚のミイラを目にして「生きている人魚」を見てみたい、などと言っていた。あの夢が、やっとかなったのだ――……。
 頭の奥の方で、かすかな警鐘が鳴り響いていた。これでいいのか? と誰かが呼びかけてくる。
 目の前の人魚の顔が、ふと、ぼやける。そこに、見知った人々のいくつもの顔が――実家の両親や妹、会社の社長や同僚、そして亡き祖母の顔が、重なってかすかに見えた。
 僕は、一瞬、瞼を閉じる。
(……いや。もういいよ、これで)
 心の中で呟いて再び目を開けると、そこにはただ、人魚の白い顔と黒い瞳しか見えない。
「なあ、ナカ……」
 今にも消え入りそうな坂田の声が、どうにか耳に届く。
「生きている人魚はな、エサを食うんやで……」
 人魚が首を伸ばし、僕の顔のすぐ前に顔を突き出してきた。まるで口づけでもするかのように。
 その愛らしい唇を、ぱか、と大きく開ける。肉食魚のように白く尖った歯が整然と並ぶその奥には、瞳と同じ色をした、底知れない闇が広がっている。僕は陶然としながら、自分の過去も未来も現在も、何もかもをその闇の中へと投げ出そうとした。
 ――だが、その時。
 ぐっ、と強く肩をつかまれるのを感じた。
 振り向くと、坂田がこちらを見つめていた。
「……やっぱり、あかんわ」
 声はかすれたままだったが、僕を見る目には光が戻っていた。
「お前のこと、巻き添えになんかできへん。俺のこと探して、こんなとこまで来てくれるなんて……そんな友達、お前しかおらへんのに」
 坂田が笑った。やつれて薄汚れていたけれど、あの頃のように屈託のない顔をして。
 そして彼は両手で力一杯、僕を突き飛ばした。抵抗する間もなく僕は後ろに倒れて、何か硬い物に頭をぶつける。
 強い痛みとともに、視界がぼやけた。坂田が何かつぶやいている。
「この封印を破いたら、逃げられるかもしれん。でも何が起こるか見当もつかんからとても恐ろしくてできん、って高橋は言ってた……」
(何を言ってるんや――)
 必死に声のする方に目をやると、坂田は床の間の前に立っていた。掛け軸に手を伸ばすのが見えた。
(封印? あの掛け軸の絵が……?)
 彼は何をしようとしているのか。懸命に見定めようとしたが、目の前が歪み、暗くなってゆく。
「ナカ。生きている人魚、一緒に見られて良かったな――……」
 最後に坂田の声がかすかに耳に届いて、僕の意識はそれきり途絶えた。

 気付いた時には、僕は高橋家の門前で倒れていた。
 雨に打たれている僕を見つけて介抱してくれたのは、あのタクシーの運転手だった。後で聞いたところによると、僕を降ろした後いったん街中へ戻ったが、再びこの近辺を通りかかったらしい。気がかりになって様子を見に来た、と言っていた。
「坂田が、坂田が、人魚に食われる」
 目を覚ました途端、僕はそう叫んでいた。戸惑う運転手の腕を引っ張って、再び高橋家の門を開く。が、その途端、先ほどとは異なる意味でぎょっとして立ちすくむことになった。
 屋敷が、消え失せていたのである。
 草ぼうぼうの荒れ果てた庭はそのままだった。玄関へと続く踏み石も。だが、その踏み石は中途でぷつりと途切れて、その先にあるはずのあの廃屋が、ない。その部分だけがぽっかりと空いている。土台も礎石も、何一つ残さず、綺麗に。取り壊して撤去した、という感じすらない。その空間が、この世から消え去った。そうとしか言いようのない状況だった。
「え、この家、いつのまに……?」
 運転手も驚いた様子できょろきょろしている。
 そして消えてしまったのは、屋敷だけではなかった。
「――坂田!」
 彼の姿も、どこにも見当たらない。僕は泣きわめきながら、降りしきる雨の中、庭中を歩き回った。
「坂田、どこ行った? どこ行ったんや、おまえ――」
 半狂乱になっている僕を、運転手は辛抱強くなだめ、肩を抱いてタクシーに乗せてくれた。
 その時彼は、僕の体が高熱を発しているのに気付いたらしい。なおも「坂田が消えた。人魚に食われた」と言い続けるのを熱のためのうわごとだと解したのか取り合わず、そのまま近くの病院まで車を走らせた。僕の意識は、病院の白い建物が見えてきたあたりでまた途切れた。
 そのまま入院となり、高熱で意識がもうろうとした状態は三日間続いた。その間に、運転手の彼はデイパックの中から僕の名刺を探し出し、会社に連絡までしてくれた。
 ようやく熱が下がった四日目、社長に電話を入れた。
『もう平気なんか? 葬式行ってタチの悪い風邪もらってしまうなんて、災難やったなあ』
 どこまでも勘違いしている社長は、気の毒がってそんなことを言う。僕は返す言葉もなく、欠勤を詫びるばかりだった。しかし、あれは確かに、ある意味では坂田の葬式だったのかもしれない――心の隅で、鈍い痛みとともにそう思いながら。
 頭を打っていたので検査のためもう一日入院して、結果は異常なし。五日目の朝、ようやく退院となった。
 病院から駅までは、あの運転手を指名してタクシーを呼んだ。
「本当にお世話になりました。ありがとう」
 後ろの座席から深々と頭を下げると、
「いやー、とんでもない。元気にならはって本当に良かったです」
 バックミラー越しにこちらを見ながら、にこやかに答える。それから少し声を落として言った。
「あの後、僕も気になったんで、村の人たちに聞いてみたんですけどね」
 高橋家の屋敷は確かにあの日までは建っていたはずだ、という。もともと集落からは少し離れている上に、「あそこは特別なお家やから」と、普段から敬して遠ざける風があったが、さすがにあの大きな屋敷を取り壊す作業が行われていれば誰かしら気付くはずだ、と。
「本当に、あの日忽然と消えた、としか言いようがないみたいで」
 警察も調べたそうだが、結局、原因不明のままらしい。不思議ですよねぇ、と運転手もしきりに首をひねっている。
「中川さんのお友達のことも尋ねてみました。少し前からあの家によその男の人が出入りしてるのは知ってた、という人はいてました。でもあの日の後は、誰も姿を見かけていないみたいで……」
「うん……」
 屋敷が消え失せたのは、坂田が「封印」を破いたためかもしれない、と僕は考えていた。もちろん具体的なことは何一つわからないけれど、あの行為によって何かが起こったのだ、と考えるのが一番妥当だった。
 坂田はどこへ行ってしまったのだろう。古い屋敷とともに、この世ならぬ場所へ消え去ってしまったのか。それとも、あの幻の湖が広がる夕闇の空間に、今も、人魚とともにいるのだろうか――。
「高橋さんのお宅の方、回ってみますか?」
 そう問われたが、断った。あそこにはもう何もない。それだけははっきりしている。
「そういえば」
 僕は気になっていたことを尋ねてみた。
「僕のデイパックの中に……」
「あ、すみませんでした。連絡先を探そうと思って、勝手に開けてしもて。看護師さんに任しといたら良かったですねぇ」
「いや、それは全然。それよりも、ノートが入ってなかった? 大学ノートで、表紙に人魚考って書いてあるやつ」
「ノートですか? うーん、なかった気がするなぁ。文庫本やったら見た記憶がありますけど」
「そう……いや、いいんや。ありがとう」
 坂田は、たった一つの形見さえ僕に残してはくれなかったらしい。
 やがてタクシーは駅に着いた。料金とは別に「お世話になったから」と封筒に入れたお礼を渡そうとしたが、「いいですいいです、そんなの」と運転手は固辞するばかりだった。でもそれではあまりにも、と僕も困ってしまう。
「あ、そしたら」
 何かひらめいたように言って、助手席のダッシュボートを開けた。
「これ、良かったら買ってくれませんか。そのお代っていうことなら、頂戴します」
 彼が差し出したのは、一冊の本だった。あの「湖北のむかしばなし」である。
「この中にね、うちのばあちゃんが聞き取りされた話も載ってるんですよ。観光のお客さんを乗せたら薦めてくれって言われて、しかたなく入れてあるんですけど、こんな本、あんまりねぇ。でも中川さんやったら、こういうの興味あるんやないですか」
「ありがとう。これ、欲しかった本やわ」
 僕たちは笑って本と封筒を交換した。
「おばあちゃんによろしく」
 本をデイパックに大事にしまう。手を振って別れ、駅の中に入った。
 ホームには相変わらず人影がまばらだ。来た日と違って、今日はよく晴れている。見上げると空の青さが目にしみた。
 やがて電車が着いた。天気のせいなのか時間帯が違うせいなのか、来た時とは異なり、思いがけずたくさんの人が降りてくる。リュックサックを背負ったり帽子をかぶったりした、ハイキング姿の中高年の団体だ。あの運転手は「このあたりには見るものが何にもない」などと言っていたが、それなりに観光の需要もあるのだろう。
 笑いさざめきながら降りてゆく人たちと入れ違いに、僕は電車に乗り込む。
 ――ナカ。
 呼ばれた気がした。はっとして振り向くが、その瞬間に扉が閉まる。
 窓の向こう、ホームを歩く人の群れの間に、見覚えのある古いリュックサックがちらりと見えた。そんな気がした。

(了)

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