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掌編小説「髪飾り」

 数年前の話だ。
 姉家族と一緒に、大阪のT市北部にある渓流へ遊びに行った。街中から車ですぐだが風光明媚な所で、花見の名所でもある。しかしその時は三月の初め頃でまだ風も冷たく、桜の木々にはつぼみ一つ見えなかった。
 姉夫婦には当時四歳になる娘がいて、僕を「おにいちゃん」と呼んでよくなついてくれていた。川のそばの広場で弁当を食べた後、僕と姪っ子は小さなゴムボールで遊んでいた。
 と、ボールがあらぬ方向へ飛び、「あー、待って」と慌てて二人で追いかける。ボールは広場の脇の遊歩道を転がり、その向こうの川へ落ちてしまった。道から川までは斜面になっている。
「危ないから、そこで待っててな」
 姪を残し、雑草や低木をかき分け斜面を下りていく。さいわい、ボールは岸辺の石に引っかかっていた。拾って戻りかけたところ、上の道からざわざわと、女性が何人か連れ立って歩いているような声が聞こえてきた。
「あら、可愛いねぇ。こんにちはぁ……」
 姪に話しかけているようだが、草木が生い茂っているので姿は見えない。
「お嬢ちゃん、おいくつ?」
「よっつ」
 姪が声を張り上げて答えている。人見知りする子なのに珍しい、と思っていると、
「一緒に来る? ええもんあげるよ」
 と聞こえてきて焦る。しかし姪はすぐにきっぱりと答えた。
「ううん、いかへん。ママにおこられる」
「そうやろうねぇ……」
「じゃあ、これだけでもあげとこか。よう似合うわ」
 女性たちは笑いながら道を下ってゆく気配だった。
 ようやく斜面を上りきった時には、そこには姪しかいなかった。左右を見渡したが、何人もの女性たちの姿など、どこにも見えない。広場では姉夫婦が何も気付かぬ様子で談笑していた。
「今ね、きれいなおねえさんたちがね」
 姪が嬉しそうに言う。はっと息を飲んだ。
「これ、くれたの」
 つやつやとした髪に挿されていたのは桜の小枝だった。今を盛りと咲き誇っている。まるで、そこだけ先に春が来たかのように――。
 昔話が頭をかすめた。冬が終わる頃、春を告げる女神が山から里へ下りてくるという……あの女神はなんという名だったか。
 優しげな声をしていたあの女性たち。きっと悪いものではなかったのだろう。だが、もしもあの時、姪が「一緒に来る?」という言葉にうなずいてしまっていたら。いったい、どうなっていたのだろう?

 こんな出来事を思い出したのは、姉からLINEで写真が送られてきたからだった。
 姪は今年、小学校に入学する。写真の中で彼女は満面の笑みを浮かべ、ぴかぴかのランドセルを背負っていた。ランドセルは桜の花を思わせる、淡いピンク色だった。

(了)

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