『引用の哲学』について書きました。 (他者、編集、救済、贈与、エネルギー)

こんにちは。小林佑太朗です。

以下は、引用の哲学について考えた文章です。これもかなり断片的かと思いますが

感想や疑問などがあれば、gbalcakctk777@gmail.comまでどうぞ。

目次
1.他者性(メディア)との出会いが、求められている
2.現在のインターネットおける、他者性や編集の状況(現状)
3.引用が、他者性を作る方法である(提案)
①引用することは、他者を救済すること
②引用されてこなかったものの存在
③引用とは、負い目を発散(自分の救済)
④引用は、エネルギーを作り、未来を描く

1.他者性(メディア)との出会いが、求められている
本当の<他者>から、他者性を吸収すること。
他者と出会うとは、中間者に出会うということ。中間者とは、メディア。一人ひとりがメディア=回路=引用のハブとなるべき。
他者と出会うと、権力=暴力を分散させられる。
なぜなら、自分中心の視点に他者の視点を加えることができるようになるから。
権力とは、相手の意図しないことを強制させる力のこと。
権力は、情報発信能力の偏りが引き起こす。
情報発信能力の偏りとは、認知される可能性の偏り
その偏りを無くすには、発信し、自分たちを理解してもらえるようにすること。
理解してもらうために、自分の<機能>を説明し、必要し合う関係になるように対話をする。
つまり、自分が他者性を持った他者となること。
対話とは、我―汝コミュニケーションによる関係性によって、質問し、興味を持ち、愛すること。これは、ネットワークを作ることである。
方向性=ゴールに沿って関係性をつくる。関係性という回路を作る。
ゴール設定=問い=唯一意識 
その中で、対象に出会う。
つまり、愛とは、対象の理由と目的を考えること。
それを考えながら、対象を引用する。
そして、存在=他者への感謝が起きる
感謝=享受できて嬉しい=価値の再認=関係性を結んでいることに対する有難さの表明。
感謝された方も救済される。
感謝によって、エネルギーが生まれる。
対話による、相手の本音の情報の吸収。本音=願望=課題。つまり、本当に解決すべき課題の共有。
一人が考える課題の共有によって、解決すべき課題であるか否かの審議が、共同体(関係性)によって行われる。

2.現在のインターネットおける、他者性や編集の状況(現状)
文章を書くときだけ編集をするわけではない。
この世界を理解するために、語るために僕らは知識というものを集め、分類し、関係づけ、体系化している。この作業は編集である。
→理解というインプットをするためにも編集し、語るというアウトプットをするためにも編集する。

編集とは、情報より意味・価値のあるものを作り出すこと。
—「…編集というしくみの基本的な特徴は、人々が関心をもつであろう情報のかたまり(情報クラスター)を、どのように表面から奥にむかって特徴づけていくかというプログラミングだったのである。(中略)こうしてみると、編集とは『該当する対象の構造を読みとき、それを新たな意匠で再生するものだ』ということが、とりあえずわかってくる。」(●知の編集術p19)
すべての情報は誰かにとって必要な形で編集されている。だからそれらを一度解凍して、今度は自分にとって必要な「知」にしていくこと。誰かのための情報を、自分ためだけの知にしていくこと。

p.8あれこれの情報が「われわれにとって必要な情報」になることを、普通は「知」といいます。情報をそのような「知」にしていくことが編集なのです。
p.44、46各時代にひそんでいた問題は、むろん欠けているものもあるにはあるが、とりあえずは二十世紀の全部を使ってその大半を並べおえたのである。
われわれはいま、それらの「内容(コンテンツ)」を通して眺めることができる。

二十一世紀は「方法の時代」なのだ。…編集で一番大事なことは、さまざまな事実や自体や現象を別々に放っておかないで、それらの「あいだ」にひそむ関係を発見することにある。そしてこれらをじっくりつなげていくことにある。

このようにモノやコトを見ることを、編集工学では「関係の発見」とか「新たな対角線の発見」とよんでいる。私はこのような方法こそが、これからの人間の認知や意識のしくみにとっても、産業界や教育界にとっても、また自分の創発的な能力を開拓するためにも、かけがえのないものになりうると思っている。

ベンヤミンの言う配置とほぼ同じ意味だと考えられる
ウェブを作るとは、家のドアからどうやって内側で興味を持続させながら奥まで案内することを可能にするプログラミングであり、方法であり、技術だ。Youtubeでは一月万冊、岡田斗司夫などがやれていないのは、動画を配置して、動画どうしの配置による知を生み出せていないことにある。また、ほかのSNSやnote、ブログ、宇野常寛などのplanetsなどもできていない。

●一月万冊:https://www.youtube.com/user/yukoreadman
●岡田斗司夫の動画資本論:https://www.youtube.com/watch?v=XCrwOmwSmGE&t=165s
・上記二つは、全て動画で口頭での解説であることは流動性が高い。
・インターネットで他者と出会いたいという松岡正剛(謎床)。本で出会う他者とインターネットで出会う他者は何が違うのか

●宇野常寛も、「遅いインターネット計画」を打ち出し、ネット上で長く読まれる記事をアップし、賛同者たちを集めたワークショップで「書く技術」というものを提供し、「深く読み、何かについて深く書く人」を育て始めている。
・遅いインターネット(本)https://www.amazon.co.jp/%E9%81%85%E3%81%84%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88-NewsPicks-Book-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%B8%B8%E5%AF%9B/dp/4344035763
・遅いインターネット(メディア)https://slowinternet.jp/
●千夜千冊についてhttps://1000ya.isis.ne.jp/top/
ファイナルカットがない。流れてはいかないが、中間者(メディア)としては、選択肢が広すぎる。情報を辿りづらい
もっと狭い方がいい。どこへへも繋がっている。もっと物理的に、要素と要素どうしの接続を減らした方がいい。

●Googleを作ったときのビジョン
これも広すぎる。メディエーションの無さ。

●では、どのように配置するか?
複数の主題をまたぐような論理の構築によって、問題の根本的解決を図るということだろう。
→日本的な、主従並立や、役割転換が重要になってくる。
日本文化に潜む編集的方法について。例えば、日本語には「あはれ」、「いい加減」、「やばい」という言葉のように、文脈ごとに意味が変化する言葉が多い。また、日本古来のボードゲームである将棋には、取った相手の駒を復活させて使用できるというルールがある。

このように、一つのものに意味が多重に付随されていたり、役割が文脈ごとに変わったりするといった事態が多く見られる。
これは、一つの要素に多様な意味が含まれているということであり、多様なものとの関係性を繋いでいくことの知恵が潜んでいると思う。
→ウェブにて、一つの記事を多用に活用する。

3.引用が、他者性を作る方法である(提案)
① 引用することは、他者を救済すること
【引用】知の編集術 p.225編集は、自分で編集するのもいいのだが、誰かによって編集されることも重要である。編集術は他者に編集されることによって、より洗練されたものになっていく。
【引用への感想】
・誰かに編集されることでこそ、自分が何かを編集したことの意味が発生するということだろう。
→また、知人が演劇をやったとき、その先生が、「肉食動物よりも草食動物として食べられる役をやった時の方が気持ちよかった、ということには大事な意味があるよ。」と言っていたようだ。このことと、<編集される>ことの関連性を考えたい。
・今自分が引用したいと思える文章を引用すればいい。また、引用することは、回路を作ることだ!
→『読みたいことを、書けばいい。』と似ている。

【謎床】p52
(松岡は)現実を破壊することで変革に至るのではなく、いまあるものを集めて並べ直したり、組み合わせを変えることで何かを生み出すというほうへ向かった。
→情報が集まってきて、それらを並べ直したり、組み合わせを変える。そこは編集の作業場である。また、その情報はそれぞれ、他の場と繋がっており、その作り変えられた場を“通過”するものは、その配列に沿ってしか、場を移動することができない。
→場の移動が、未来の実現方法だと語る白銀竜京と通じる。

【引用】自分で考える本
言えなかったことを、言うことになるかもしれない。
→編集をしきったと思って言葉で文章をつくる。けれども、異なる文脈の中で生きている人がその文章を見て、さらに違うコンテクストへと編集していくということが面白いと思う。さらに面白いことに、これは未来の自分という異なる文脈を持つ人でさえも、更なる編集は可能なのである。これが面白い。このようにして、論理・ロジックが鮮明に、または深いものになっていくのだろう。

●自分で考える本p.8
本から情報を解放し、別の新たな本へと結実させる…本を読む者には、こうした一連のことがある意味では求められているとさえ思います。恩返しという意味においてです。ある本に出会い、その内容に驚き、楽しみ、考えさせられ、そしてそれを出発点にして自分も書く。恐らく、本を書く義務などないでしょう。義務ではなく、歓びとして書くことへと至る。そんなあり方を私は素晴らしいと思います。

●ベンヤミン 千夜千冊
ベンヤミンにとっては「配列」と「布置」こそがすべてであって、そこから何が抽出され、そこに何が引用されたかが最大の問題なのである。個人とはその抽出と引用の質量の代名詞であったのだ。(https://1000ya.isis.ne.jp/0908.html)

●ベンヤミンの〈問い〉p.9
『「引用文の断片」という言い方ですら、本当は不適切なのであって、ベンヤミンの行う「引用」はいわゆる「断片」でなくて、それ自体がまとまりのある「作品」である。一つの引用文は、たしかにベンヤミンとは違う別人の文章ではあるが、しかしこれは、ベンヤミンの考察の光が当てられ、その光のおかげで蘇ってきた文章であり、その限りでそれは元のテクストのなかの文章ではなくて、別個の生命をもつ文章である。
 それは、ほかならぬ「ベンヤミンの文章」になる。かつて誰も見向きもしなかった文章に新しい生命が宿る。その生命を注いだのはベンヤミンその人であって、ベンヤミンの視線が染みとおることで蘇生した文章(引用文)は、新しいコンテクストにおいて一個の作品としてあらたな生の道を辿ることになるだろう。』
→引用は作品であり、その作品は元のテクストの作成者という生命であった。引用によって、その作品である引用文は引用者の生命となったのである。それは、考察の光を当てたことで蘇ってきたのである。また、この話は、人間の身体に非常に似ている。また、誰も見向きもしなかった文章というのがキーであると思う。廃墟、哀悼、救済、という概念が大切になってくるだろう。

→引用したら、文字を打つことによって、また新しく理解が進んだ。
つまり、読んでいるだけでは追うことができなった文章の論理やロジックが目に付くことで、今まで認識に上がっていなかったメッセージが読み取れた。
また、文章を引用するのは、書いてあることをそのまま書き写し、さらにその作業は両手を一生懸命に動かしてキーボードに打ち込むというものである。
これは非常に大変な作業であり、できればやりたくないと思うのが普通の感覚であろう。
でも世に出ている一般書や、特に専門書を見てみると、かなりの分量の引用がされている。
このようなことはなぜ可能なのだろうかというように思っていたが、自分が引用してみて初めてわかった。
どんな時に引用がスラスラ書ける感覚になるかというと、その引用文が、自分の文章の一部分と感じられる、もっと言えば、自分の身体の一部と思えるほどの文章であるときである。
この身体の一部という話は、ベンヤミンや米山優さんの文章を参考にすると、更なる理解が進むことだろう。

●作ると考える―受容的理性に向けて (講談社現代新書)今村 仁司
【引用】作ると考えるp108.109
哀悼は、物理的には死んでいるが精神的には死んでいない死者との対話であり、死者を回想することである。
「死者」とは必ずしも人間とはかぎらず、事実や出来事でもある。
かぎりなく廃墟として積み重なっている過去の出来事・死者と対話し、目覚めさせ、回想し内面化すること、これは一種の離別作業でもある。
別れは、過去の可能性を未来に向けて解放する。
人は、真に別れるために哀悼する。
→対話によって、その対話の相手が目覚める。なぜか?
そして、なぜこれが離別作業なのか?
今までの固定観念で認識していた死者を、未来に役立てるものとして扱うようにする、ということか?
それらならば、今まではどんな風に扱っていたのか?
→歴史や事実、ニュースやルポなども、一緒にどんどん引用していきたい。

【引用】作ると考えるp134.135
引用とは、「翻訳」である。ベンヤミンはこの意味での「翻訳者」たらんとしていたのである。
翻訳を通して、古代のオリジナル=原本がはじめて息を吹きかえす。
無数のイマノトキ=目覚めさせるべき可能性が歴史の場をつくる。
それが根源史である。これは、裂け目を通して引用され、翻訳される。
革命とは引用と翻訳である。過去は「過ぎ去った」のではない。
目覚めを待つイマノトキとして、われわれの足元に沈殿している。それは廃墟の累積である。
「革命」が真の意味で実現するのだとすれば、それは現在の表面から垂直に下方へと下降することである。
「革命」は根源史への下降である。

【引用】作ると考えるp.160
戦後のアドルノが手をつけなかった領域がないほどに、彼の仕事のレパートリーは拡大する。
このエネルギーは「かつてアウシュビッツで死んでいたかもしれない」自分が、実際に死んでしまった多くの死者にかわって、死者のために、語るべきことを語るのだという責任から出ているのであろう。
死者は「深き淵より」呼びかける。
かれはそれに、「応答」(レスポンス)せざるをえない。
「書く」とは、かれの場合、「死者の呼びかけに答える」ことである。
【引用への感想】
死んでいたかもしれないということ。代理の概念に通じる?
思いや願いが果たされなかった人たちの思いを背負う。
負債感とも通じるかもしれない。
→20200507 編集→引用→負い目→救済→贈与

●【引用】ベンヤミン 破壊・収集・記憶 p.337 カール・クラウスについてのエッセイ
ひとつの語を引用するとは、その語を真の名前で呼ぶことなのである。
それゆえ、最高の段階においてのクラウスの功績は、新聞のようなものでさえも引用可能にしたことに尽きる。
彼は新聞を自分の空間へと移し込む。するとたちまちにして、新聞の中の紋切り型の文章はみずから気づくことになる。すなわち、たとえ新聞記事のどんなに深い沈殿物の奥に埋もれていても、こうした決まり文句は、それを夜の闇から引き離すべく言葉の翼に乗って舞い降りて突然侵入してくるあの声から、決して安全ではないということである。もしその声が、罰を下すためではなく、救済のために近づくのなら、なんとすばらしいことだろうか。
【引用への感想】
・どこかで、ベンヤミンは引用だけから成り立つ文章が最も望ましいと言っていたらしい。でも、それは叶わぬ話だろう。なぜなら、一番初めに誰かが文章を引用せずに書くことがなければ、引用するべき文章がないからである。ではここで彼の言葉を次にように解釈してみたい。つまり、引用とは、誰かが言葉を使って書いた文章だけに限らないということだ。文章でない、物理世界にあるものを言葉を使って、写し取るように引用するということだ。これならば、先の彼の言葉は矛盾がない。
【わき道】
・文章は、書いていて心が躍るようなことを書かなくてはならない。全ての人は、やりたいことだけしかやってはいけないからだ。
ドライブ感のある文章を書いていきたい。
・専門用語なるべく使わない、または使ったとしても、その言葉の詳しく説明して文章を書きたい。
→追記(20200507)“新聞のようなものまで引用可能にした”とのこと!だから、ニュースやネット記事さえも引用して翻訳して救済することが大切である。
また、作品から引用してくるとは、自分の一回性の生活の履歴を残すことであるから、かけがえのないものであろう。
しかし現代におけるおおくのテクノロジー(SNSを代表にした)は、その履歴を流していってしまっている。
流すのでは、配置=編集し、知とすべきなのだ。
なぜなら、それが自分の履歴を救済(=再解釈することにより意味というエネルギーを与える行為)であるから。

【引用】ベンヤミン 破壊・収集・記憶 
メシアの到来のためには、未来を探し求める(未来を論証的に強奪する)のではなく、むしろ逆に「過去の想起」こそが必要である。
ベンヤミンにとってメシアの到来は、ユダヤ人一般にとってそうであったように、取返しがつかないまま忘却されてしまった過去の不正の「想起」ということと切り離して考えることはできない。
彼にとって未来というものは、過去と断絶してそれ自体として存在しているのではなく、われわれ生者が、かつて生きていた人々の苦難と願望、今や忘却の淵に放置された苦難と願望を「想起」し、それらをわれわれ自身の危機のうちに蘇らせて、弁証法的に並立させるなかで、われわれの行動のうちよりはじめて開けてくるものだからだ。
【引用への感想】
我々自身の危機と関係がある。今の問題を、過去に学ぶ?
派生して
無念、死者の希望、有機的つながりの途絶え、悲しみ、哀しみ、悲劇、悔しさ
=ありうべき、又はあってほしかった関係性の断絶、と言えるかもしれない。
→そして、これらの救済が必要=エネルギーが作れなかった(つまり関係性を作ることができなかった)ものたちの救済
救済=それらに正当な位置を与える。
それは、それらにエネルギーを与えることであり、それを実行した者たちの存在がより活かされた、つまり他にとって役だった存在になる、ということではないかな?
また、今の論理と感謝することの意味の関係はどうなっているだろう?
恐らく、陳腐な言い方になるが、どちらも「不可能であった事実から学ぶ」と言えるかもしれない。

●以下は、『ベンヤミン: 破壊・収集・記憶 (岩波現代文庫)』の引用か?

ハンナ・アーレントはベンヤミンについて、「生まれながらの文章家であったが、一番やりたがっていたことは完全に引用文だけからなる作品を作ることであった」と書いている(「暗い時代の人々~ベンヤミン」阿部斉訳)。彼の「パサージュ論」は、この願望に対して、完全にではないにしても、ほぼ応えている作品ではないかと思う。一瞥してわかるように、この作品は通常の論文のように、一本筋のとおったストーリーを展開しているのではなく、他人の書いた文章の引用で大部分が形成されているのである。

引用文の間に、ベンヤミン自身の言葉が差し挟まれているが、それは、引用文を解釈したり、引用文同志をつないだりする役割を果しているというより、引用文と全く同じようなレベルで、ある言説を表白しているに過ぎない。それ故、この作品は、引用文とベンヤミン自身の言説からなる断片的な文章を雑然と混在させているといったような印象を与える。だから、ベンヤミン研究家の中には、この作品を、ある程度完成した作品とは考えないで、あるべき完成体に向けての準備的な作業だと解釈する人もいる。

だがやはりこの作品は、完成態とまではいえないまでも、ある程度のまとまりを持った作品だと考えられる。ベンヤミンにもっと時間が残されていて、この作品の完成度を高めるゆとりがあったとしても、その完成態が、現存の作品と決定的に異なった姿をとっただろうとは、考えがたい。現存の作品の構成、その概要として書かれた二つの文章(どちらの題名も「パリ~19世紀の首都」)、また作品への諸論として書かれた小文(「歴史の概念いについて」)を並べてみると、この作品が一定の意図のもとに体系的に構想されていたことがわかるからである。

ベンヤミンの畢生の大作「パサージュ論」は、膨大な引用からなる著作であるが、それは、引用を論旨展開のための証拠として用いているのではない。引用された文章が、そのままテクストになっているのだ。つまり、引用された個々の文章は、もとの文章の分脈から離れてまったく違う文脈の中に置かれることで、それら相互の組み合わせからまったく異なった、あたらしいメッセージを発するに至る。引用された文章は、異なったテクストの間を浮遊するというわけである。こうした行為をなすのは、体系的な思想家ではなく、収集家であり散歩者である。散歩しながら気に入ったものを収集し、それらをアトランダムに組み合わせることで新しい意味の発生を楽しむ、というわけである。

「収集家は、かつてかれの対象がより巨大で生成しつつある全体のほんの部分に過ぎなかったときに、その対象が置かれていた前後関係を破壊する・・・それらの分脈から断片を引き裂き、それらが相互に例証しあうように、またいわば自由に浮動している状態においてそれらの存在理由を証明できるような仕方で配列することであった。明らかにそれは一種のシュルレアリズム的モンタージュである」(同上)

この収集家としてのあり方こそ、ベンヤミンの本質的な態度なのだ、とアーレントはいうのである。その収集家としてのベンヤミンをアーレントはまた「真珠取り」とも名づけている。
真珠採りは海の底深くにもぐって行って、貝殻のなかから真珠を採りだす。そのようにベンヤミンも、歴史の海底に沈んだ廃墟のなかから、真珠のように輝いた断片を採りだすのである。

●引用(千夜千冊https://1000ya.isis.ne.jp/1527.html)
本は世界の引用でできている。
本たちはその連鎖でつながりあっている。
読書の愉楽とは、その引用の連鎖を
次々に渡り歩いていくことで成立してきた。
だから読書とは、本というスタイルやモードの特色を
取っ変え引っ替えして好きに遊ぶことなのだ。
邦訳タイトルもいい。“BOOK BY BOOK”という原題もいいけれど、これをよくぞ『本から引き出された本』にした。
 そうなのだ、本は一冊ずつがネステッド(入れ子状態)になっているインターテクストたちの束の集まりで、本によって引き出され、その引き出された本によって次の新たな本に入っていくことが、読書の醍醐味なのだ。
 読書するとはこのインターテクストに分け入って、自身を不定形なアンドロイドふうの怪盗紳士にしたり、きゃりーぱみゅぱみゅのように自在な“重ね着”をするハイパーテクスト嬢に仕立てていくことなのである。
●同引用
ミシェル・フーコー(545夜)は人生にとって一番の根幹になるのは、「当初の自分とは違う人間になろうとすることである」と言った。そのうえで、そのためのエンジンに最もぴったりしているのは「次々に本に没入することだ」と断定した。こうしてフーコーは知の考古学者になった。
→ではどうやって入り込むのか?例えば、引用しようとして読むことだろう。つまり、自分の身に引き入れようとして読む。さらに、自分の引用したものが他の存在に編集されることを想定して読むこと!

②引用されてこなかったものの存在
謎床p.204
文化や文明というのはやはり失敗を含んでその民族に定着していくようにも思える。華夷秩序の中で生まれた漢民族の漢字システムにも、いろんな跛行性というか、おっ取り刀というのもいっぱいあったわけです。それが西夏文字になったり、日本の仮名になったり突厥文字になったりするときも、いろいろな失敗例を含めながら進んでいった。

p.205
制約、限界、失敗。そうしたものが転んで何かに変じていく。そこに創発性がひそむと思うんですね。

P293, 294
神と意識・無意識、それとエロスと死というのは、表に見えている資本主義の枠を越えています。
資本主義の枠組みの中からはコントロールできないものなんですね。それをわかっているから、枠組みはそれらを規制しようとします。

たとえば日本では政教分離が徹底され、政治と宗教は分ける。政治の場では神も仏ももち出さないということが公然とルール化されていますね。
意識や無意識の話も政治やビジネスの現場にはそぐわないと考えられている。
エロスや死がもち出されることもないし、もち出されるときには犯罪扱いされるか、芸能化されるような場面になってしまう。
企業や経済的な取引では、不正が取り締まられ、コンプライアンスが徹底されています。

 ところが実際には政治や経済も、宗教や神も、人びとの意識と無縁ではないですし、だからこそいざ大統領選の蓋をあけてみると、マスコミの読みがはずれてトランプに票が集まってしまうということだっておこる。
ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』ではないですが、資本主義が囲んでしまった言語と機械と方法に、エロスと死(タナトス)、神仏と意識(無意識)といった市場化できないもの、インディケーターにならないものが持ち込まれると、大きな変更がかかる可能性があるわけです。
そういったものを枠組みの外に追いやって無視しつづけるわけにはいかないでしょう。
p.298
フラジリティの本質には、欠損・破損・不足という状態が深く関係している
【引用の感想】
正統性が重視されてしまうのが言論や学問の方法。それは近代の方法。
苫米地英人などは、芸術的に、アーティスティックに本を書いている。例えば、『苫米地英人、宇宙を語る』など。

日本の文字文化や食文化、宗教文化やアイドル文化に見られるような、多様なものが一つの場に盛り込まれながら、それらがバランスを取りながら新しい価値を生んでいくようなあり方も多く見られる。
何か強い一つのものを立てるのではなく、複数の異なるものを立てるという原理が日本にはあるのだと思う。

「AI資本主義」は人類を救えるか 中谷巌
丸山眞男は、本居宣長の古事記研究を参考に、日本民族の特性として「なる」「つぎ」「いきほひ」という3つのキーワードを導きました。
ユダヤ=キリスト教は、「つくる」の論理。主体と客体の二項対立構造の基礎。
「なる」の発想は、連続性を基本にしており、切れ目、断絶がなく、たえず物事が自ずから生成し、増殖していく。
③ 引用とは、負い目を発散(自分の救済)
【引用】自分で考える本(米山優)p.8
本から情報を解放し、別の新たな本へと結実させる・・・本を読む者には、こうした一連のことがある意味では求められているとさえ思います。恩返しという意味においてです。ある本に出会い、その内容に驚き、楽しみ、考えさせられ、そしてそれを出発点にして自分も書く。恐らく、本を書く義務などないでしょう。義務ではなく、歓びとして書くことへと至る。そんなあり方を私は素晴らしいと思います。

【負い目】
何が美しいか?輝くか?
なぜ輝くかという指標が必要なのか?
輝いた姿というのは,➀不当でない。負い目がない。負債感がない。晴れ晴れする。活用できている。世界に対して胸を張って生きていける。
・この概念を最近「ゴールから観た罪悪感」という考えと繋げられると考えられる。
・返報性ともいえる。宇宙は返報性で成り立っている。貰えば貰うほど、貰っている対象に対して、有難さと同時に、負債感が募ってくる。その対象も、他の存在と関係性を結ぶことで存在している。つまり、世界は関係性=愛=エネルギーの贈与によって成り立っている。
・どこかある存在にエネルギーが集まると、その負い目、燻ぶった、溜まって活用されずに眠っているエネルギーが、活用されたいという内側からの叫びが強くなる。溜めることはできない。コンフォートゾーンか?関係性が何か、
【遊ぶ】遊ぶことが、純粋贈与
遊ぶ、聖俗、編集、美しい、輝く、祝祭
全てを犠牲にしてでもやりたいことは?
・輝きと倦怠、覚醒の関係は?「ベンヤミン」
→遊べば、倦怠感はなくなる
・罪悪感、負債感と輝くの関係
・負債感と贈与

【罪悪感】
罪悪感、罪の意識、不当、そぐわない、相応しくない、(他人から見たら)ずるをしている。誰かに負担をかけている。不公平。フェアでない。見合っていない。
ゴールからみた罪悪感とは何か?ゴール→セルフイメージやブリーフシステム。「もっとこうできるはずなのに」みたいな。
主張、説明が参考にされない
ゴール側の縁起の対象にエネルギー・愛を与える 意識を与える 意識する 関係性を結ぶ

【美】=バランス=編集=エントロピーを減らす行為
美とは、バランスである。偏りがない。多くの対象に、偏りなく気を配れている。
偏りがないとは?秩序だっていること。秩序立っているとは?理に適っている。美学。生命力、影響力、支配力=コントロール能力

④自分のエネルギー回路を作り、他者との間にも回路を作り、未来を描く

【人間の判断力・対話、政治】権力とは、どこへネットワーク化するかということ
知能=進むべき方向性の発見システム
真実、まとまりのある情報提供・共有、情報発信者の行為の理由と目的を知る、閉鎖系の意識のメカニズムから抜ける、新たなネットワークをつくる、権力の解体、権力の分散、押しつけからの超越、思考を停止させない、秘密を作らない、共有、権力=影響力

・覚醒者とは、鮮明に理想のシナリオを描くことが出来る人のこと
・理想を達成することは、場所を移動すること。生きるとは、場所を移動すること。
そのためにシナリオをつくる。
→理想のシナリオを描くには、過去のことをベースにして、未来を描くことが必要である。アナロジーを働かせる。過去のものを、未来をターゲットに向けた配置にすることによって、未来が描かれる。
意識のメカニズムを変革させる!(やっぱりこういう内容の方がいいかもな。。)

また、『読みたいことを、書けばいい。』にも書いてあるが、一次情報が9割9分?くらいだっけ、必要なのだ。これを忘れないようにする。
ちなみに、この本はネット記事の紹介が多数あったが、実際に調べる人はほとんどいないだろう。なぜなら自分でわざわざ調べなければならないから。メディアの種類をまたぐことの面倒くささが弊害となっている。

【本音】=信用=一次情報=身体=現実=アナロジー
本音、want to,本音の表現、本音が表現できる人間関係・システム・場、本音の開示、対話、
承認、ケア、気にかける、配慮、居場所、平安、信用、本名、何を話したいか、興味の対象、興味のあるテーマ、無償の愛、無限の贈与、エネルギー、

【一次情報】
サイトの記事を作成するためには「その人独自の体験や視点で書かれた記事」が必須となります。全て私の体験や知識を基にした情報であることが分かります。
人から聞いた情報や自分の経験を一旦頭の中に落としこみ、そこから自分のフィルターを通すことでオリジナル記事としてアップしています。

【意識】
意識とは何か?
その人が考えていること。言葉で考えている。言葉の定義が曖昧だと、思考が曖昧となり、思考が上手くできない人になってしまう。思考の鮮明化。
意識のメカニズムとは、その人の脳の中で構成されている言葉のメカニズムだと言える。
メカニズムとは、枠組み、言葉のいろいろな定義、他の言葉とのつながり。仕組み。
簡単な言葉で組み立てるように、一つの言葉を説明する。
【一つの言葉の説明、(対話、など)、それらの言葉が表しているような現象が、どのようなメカニズムによって起こるのか?という仕組み、理由、メカニズムを、単純な言葉(意識、エネルギー、これらだけに限らない。他の言葉との関連なども使う)などで説明する!】
→自分の回路が変わると、対象へのとらえ方、認識の仕方が変わる。

→一人の脳の中で繰り広げられる言葉のメカニズムは、自分個人で完結する「ウェブ」である。

【生きる】とは、蓄積!
人間は何をしているのか。ネットワークを作ろうとしている。繋ぐこと。
何のために繋がるか?大きなエネルギーを創るため。
生きる作業=コンテンツを作る。=中身をつくる。
生きるとは、エネルギーを創ること。

【テーマ】
ゴール=自分にとっての理想の未来。他と一緒に目指すのなら、メッセージが必要。メッセージとは、大切な言葉。伝えたい内容。
文脈=テーマ=目的=ドーパミンが持続的に溢れるとシミュレーションされるもの
→ドーパミンが分泌されるのは、過去の出来事の中でドーパミン出た経験と類似しているものである場合。


以上です。

●感想や質問がある方は、noteのコメントか、以下のアドレスまでメールを気軽にどうぞ!

gbalcakctk777@gmail.com


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