5年後に退職する新卒サラリーマン【第一章】 (1)
12月12日。
安斎は、成田空港に降り立った。
1年振りの日本だった。
そう・・・私は帰ってきたのだ。
海外留学先の「香港」から。
「フン・・・
懐かしい匂いだ・・・日本か。」
21歳。
安斎は、イキッていた。
イキり倒していた。
たった1年、香港の大学にちょこっと通ったくらいで、「世界の広さを知った男」的な雰囲気を、モクモクと醸し出していた。
「どうも・・・私が、グローバル人材です。」と言わんばかりの、根拠のない自信に満ち溢れ、その頭の中はピンク色のお花畑で溢れかえっていた。
今にも「How are you doing?」というイカした挨拶が口を突いて出そうなほどであった。
そう・・・
東北の米農家で生まれ育ち、「おら東京さ行ぐだ」と言っていた、10代の頃の純朴な田舎者の安斎は、もういない。
あの頃夢見た、未来都市・東京どころか、「海外の香港さ、行っできですまった」安斎の、その瞳は、もう「グローバル」に染まっていた。
もはや、日本のことを「ジャパン」と言ったり、大学の同級生たちのことを「マイフレンズ」と呼んだりしかねない、極めて危険で雰囲気をはらんでいた。
中二病的な、大学三年生だった。
それも、症状としては、末期の。
インターナショナルでグローバルな、ボーダーレスなダイバーシティを追求するマルチナショナルなグローバリゼーションを、彼は、海外で、身をもって体験してしまったのだ。
要するに、海外で、若さの至りでテキーラ一気飲みして「フォー!!」と叫んで、めちゃくちゃに遊んで、クソみたいに調子に乗っていたのだ。
そして・・・
彼は、気づくのであった。
もう大学3年の冬なのに・・・
全く「就活」をしていないことに。
「埼玉国際大学」グローバルビジネス学部。
流行りの「グローバル教育」の波に乗ろうとして、失敗した、典型的なアホ大学の一つである。
埼玉県に位置する、地方国立大学。
偏差値は、圧巻の「49」。
3年前まで「大宮大学」という名前だったが、「これからは国際化の時代だ!」みたいなことを学長が急にほざきだしたとか、ほざきださなかったとかで、なぜか突如として「埼玉国際大学」という新たな名称に変更され、そして、元々あった「教養文化学部」は、「グローバルビジネス学部」として、完全に生まれ変わった。
いや・・・教育カリキュラムも、キャンパスも、教授陣も何ひとつ変わってはおらず、中身は芋臭い田舎の大学なのだが、その「名前」だけが、あっという間に、生まれ変わった。
こんなに、簡単に生まれ変わっていいのだろうか?
というくらい、超スピーディーに、お手軽に。
そして、私はこの「グローバルビジネス学部」の創設以来「第3期入学」の大学3年生として、埼玉の地で、国際エリート教育を受け、海外・香港の「香港大学」に留学し、1年間の海外パリピ生活を経て、舞い戻ってきたのだった。
「埼玉国際大学」、通称「クサ大」へ。
さて、と・・・。
久しぶりの「日本の空気」を吸って、哀愁と憂いに満ちたカッコいい表情を浮かべた安斎は、この先のことに、思いを馳せた。
私は大学3年生。あと3か月くらいで4年の春を迎える。
どうやら「就活」というものが、あるらしい。
就活について、あまりよく分かってはいないのだが、たぶん「ググれば何とかなる」だろう。
私は何といっても「海外帰り」だからな・・・
外資系企業なんかも良いかもしれない。
「・・・え?・・・安斎、
もう12月だから、外資の選考は、全部終わってるよ?」
「・・・・Oh, Really?」
つづく。
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