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【平家物語】巻01_09 清水寺炎上


額打の騒動から数日後。ついに、額を興福寺に割られた延暦寺衆徒が動き出した。彼らは興福寺を目指すのではなく都へ乱入。人々は驚き逃げ惑い、彼らの動きについて「後白河院が、衆徒に平家討伐を命じた」というデマまで広がった。
そのデマに驚いた後白河院が平家の本拠地・六波羅に行幸するという騒ぎにまでなったが、衆徒たちは、興福寺の末寺・清水寺を焼き払って意気揚々と引き上げて行った。

平家追討のデマについて、清盛は「火の無いところに煙は立たない」という思いであったが、重盛はそんな父に慎重な対応を促した。
一方、院は「身に覚えもない」と近臣たちの前で宣言したが、院の側近のひとり・西光法師は「この噂は天が人々の口を借りたお告げだ」と述べ、周囲の人々は、平家の横暴を暗に批判する大胆な発言におののくのであった。

お寺同士の関係が非常にわかりづらいのですが、平家物語を読んでる中では、

  • 比叡山の延暦寺(山門)と、比叡山のふもとにある園城寺(三井寺/寺門)は仲が悪い。

  • 延暦寺と、興福寺も仲が悪い。そのため、興福寺と園城寺はよくつるむ。

  • 後白河院は延暦寺を「思うようにならないもの」の一つに挙げ、うんざりしてる。

  • 平家と興福寺は仲良しではないが、だからといって延暦寺と平家が仲良しというわけでもない。

っってな感じですかね。
清盛が最終的に、このお寺勢力をウザがって、福原へ遷都しようとしたのは、そういう背景があるからなんでしょうね。あと、厳島神社を整備したのも。

ここでのポイントは、延暦寺勢力が比叡山を降りてきたとき、
「後白河が平家をやっつけるのかも」という噂が出たということ。
清盛はこの頃、二条帝と接近しており、妻の時子も二条帝の乳母になっています。二条帝の新政開始で為政者の立場を失いそうな後白河的の状況を考えると、こんなデマが出てくるくらいには、「院がいい加減平家にムカついてる」という空気があった時期なのでしょうね。
しかしこの時点ではまだ1165年。後白河と清盛が決裂する「鹿ケ谷」事件まではまだ12年あります。
二条帝の死によって、清盛は再び後白河との関係を修復するのです。
実権を取り戻した後白河院は、かねてからのお気に入りの女性・平滋子との間の子を帝位のレールに乗せますが、滋子は、清盛の義妹(時子の妹)でした。

ここで絵の話。
牛車の行列の参考にしたのが「平治物語絵巻」だったので、
武士がいっぱい入っちゃいました。実際はこんなにものものしくはないかも。院も清盛も出家するちょい前の話なので、頭は剃ってません。
西光は、どんな顔にしようかなと迷いましたが、爬虫類顔になりました。
この時点で結構な年齢なんですけど、なぜか私の脳内に「いつまでもつるんとしてて年齢不詳」というイメージが勝手にありまして……。なんでだろ?