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花屋日記 そして回帰する僕ら

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ファッション女豹から、地元の花屋のお姉さんへ。その転職体験記を公開しています。
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#花体験

「花屋日記」44. 閉店後に現れる、古新聞のモデルたち。

 閉店の21時をまわると私は音楽を止め、レジを締め、あらゆるデータ入力を済ます。そして水汲みをし、掃除し、花たちを新聞紙でまく。そのときに使う新聞紙は商業施設の事務所から譲り受けている古新聞で、一般紙から経済紙までいくつかの新聞がマーケティングリサーチのために読まれていることがそのバリエーションから見てとれた。私はその中から適当な一枚を引き抜いては花の長さに合わせて包み、セロハンテープで留める。  何十回とそれを繰り返す中で、私は自分がドキッとする瞬間があるのを知っていた。そ

「花屋日記」35. 天に向かって放て。

 鬱が脳の病気だということは、どれくらい世間に知られていることなのだろう? 私は自律神経の影響で2年近く、まったく読み書きができなかった。新聞を読んだり小説を読んだりしても、とにかく言葉が私の脳にとどまらず、一行を読んでも次の行を読むときには前の行の記憶が飛んでしまう。頭の中にもいつも靄がかかったようで、私は自分の思考さえ捕まえることができなかった。  これまで文章を書くというアウトプットを自分の表現活動の軸にしていた身としては、それは現実的に死にたいくらいショックなことだっ

「花屋日記」33.「愛」の単位になればいい。

「おねえさん、質問。女の子に花あげるんやったらどんなのがええの?」  ある日、ふらっと店に来られた男性にそんなことを尋ねられた。カジュアルな口調ながら、目はどこか真剣だった。適当には答えられない気がして、私は詳しくお尋ねした。 「お誕生日プレゼントですか?」 「いや、なんちゅうかな、彼女の玄関に花があったらええな、と思たんよ。あ、僕の彼女ちゃうんやけどね」 男性は慌てたように、そう付け加えられる。 
「そうですね、普段からお花を飾ったりされる方でしょうか?」
 「ないない、

「花屋日記」27. その愛は未来へ届くか。

 ある晩のことだった。30代のサラリーマンが店に立ち寄られて、ずいぶん長いあいだ花桶の前でうろうろされていた。「お伺いいたしましょうか?」とか「一本からでもお包みしますので、おっしゃってくださいね」とか声をかけてみても、とくに反応があるわけでもない。私がもう接客をあきらめて別の作業に入った頃に、その方はようやくカウンターへやってこられた。  手には3つのブーケが不器用そうに抱えられている。小さなピンクのブーケが2つと、それより少し大きめの紫のブーケが1つ。そんなにたくさんお買

「花屋日記」26. あなたに見せたい花だった。

 小さな店なので、お客様とのコミュニケーションの積み重ねからリピーターを作ることが大切なポイントだと、私は思っていた。今回はそれが裏目に出てしまったのだろう。私たちは花を売るサービス業なのであって、お客様に恋されている場合ではないのである。シノダ様は常連客だ。きちんとお付き合いはお断りしつつ、お買い物は継続してもらえる形に持っていかなければならなかった。なのに私の口からとっさに出た言葉は 「すみません、あの、そういうつもりではなかったんです…」 という、そのまんまな一言で、シ

「花屋日記」25. ここは恋愛多発地域か。

 これはどこの業種でもあることかもしれないが、実は花業界でも、仕入れ先や宅配担当の人たちとの間で頻繁に恋が生まれたりしている。 「あの宅配のお兄さんはいつも感じいいよね」 と軽い気持ちで後輩スタッフに話しかけたら 「…すみません私、実はあの人と付き合っているんです」 「えっ、いつから!?」 「先月、こっそり『お姉さんは彼氏いるんですか?』と聞かれて『いないんです』って言ったら、連絡先を渡されまして…」 なんてことが裏で起こっていたりするのだ。なんせこちらのスタッフも女性ばかり

「花屋日記」24. さらばフロントロウ。

 かつて在籍したファッション編集部では、とにかくみんなの気位が高かった。なんせファッションショーでは当然のようにフロントロウに招待され、ブランドの展示会でも貸切の時間を設けられるので、それがだんだん当たり前になってくるのである。たまにVIP扱いされず、ちょっとでも待たされたりすると 「私たちが誰か知らないのかしらね?」 と、みんなあからさまに不機嫌になった(とはいえ、待ち時間があるとなれば○ルマーニのラウンジでお茶をしたりするので、どこまでもバブリーな世界である)。私はそんな

「花屋日記」23. 静寂の中で彼女を守る者たち。

 魅力的な女性が、ときどき店に立ち寄ってくださる。スタッフの間で「あのすごくかわいいひと」で通じるくらい、みんなの記憶にのこる美貌の持ち主だ。彼女はいつもブーケではなく、単品の切り花を購入される。ご自分で花を選びたいタイプの方なので、私はいつも挨拶だけをしてカウンターにひっこむ。  それに最近気づいたのだけれど、彼女は元気がないときに花を買いに来られるのだ。たいていは仕事帰りに、そしてたまにはお昼過ぎにも。 「こんな時間にいらっしゃるなんてめずらしいですね」 と一度お尋ねした

「花屋日記」22. バラをめぐる夜の攻防戦。

 うちの店では「柳井ダイヤモンドローズ」というブランドのバラを束にして定番商品にしている。人気品種がミックスで山口県の産地から届くので、毎週買っていかれるリピーターも多い。  ある晩、ブルーの作業着を身につけた無骨そうなおじさまと、部下らしき男性3人があとに続いて店にやってきた。どうも飲み会の帰りらしい。 「バラはないか? 俺、バラが好きなんや」 とおじさまが上機嫌で言う。 「今朝届いたばかりのバラのブーケがございますよ。これは『シェドゥーブル』と言ってロゼット咲き(花弁が

「花屋日記」21. 消えない「消えもの」。

 花屋になると、いわゆる社員割のようなものが使える。知り合いに花を贈るときなどに、少しだけ値引きがきくのだ。私はそれを利用して、今までより頻繁に誰かに花をプレゼントするようになった。それまではお祝いやお弔いでしか花を注文することはなかったが、今はもっとパーソナルな贈り物もできる。理由なんてなくても「いい花が入ったから見せたくて」と配送することさえあった。  ある日、私は以前習いごとを通じて知り合った、ある高齢の知り合いに花を贈った。毅然として生きている彼女は、私から見ると「

「花屋日記」18. 男性と花束のリアル。

 女性に花を贈る男性、とくに日本人の場合、私はなかなかそのイメージを描けなかった。お金持ちでキザな人? 女の子の扱いに長けているプレイボーイ? 漠然と、そんなふうに思っていた気がする。男性が日常生活のなかで女性に花を贈るシーンなんて、映画でしか見たことがない(もちろん自分も花なんてもらったことがないし)。  しかしある日、私はついにそのリアルな場面に遭遇した。夜遅く訪れた若い男性のお客様が、4年目の記念に恋人へブーケを渡したいとおっしゃったのだ。アクセサリーと一緒に渡すのだ

「花屋日記」17. もう「負けて」もいい。

 花屋の仕事は意外にハードで、私はなんと2ヶ月ごとにスニーカーを買い直さなければならなかった。毎朝、段ボールを踏み潰したり、台車や脚立を動かしたりしているうちにいつの間にか、穴が開いたり、ソールが剥がれたりしてしまうのだ。もちろん勤務時間はずっとカウンターで立ちっぱなし。たまに重い物を運ぶ際に首を痛めて、某バンドのドラマーのようなネックサポーターを着用したまま店頭に立ったりもした。  甘いと言われるかもしれないが、今まで体育会系なノリを体験してこなかった自分としては、こんな肉

「花屋日記」16. この子の家族になってください。

 観葉植物がダメになってしまう理由のほとんどは「水のやりすぎ」なのだそうだ。土がカラカラに乾いた状態まで待ってから、次の水やりをするようにしないとたいていの根っこは腐ってしまう。水は土全体に行き渡るようにたっぷり与えて、受け皿に水が溜まらないように気をつける。それがとにかく基本的な世話のやり方だということだった。  店では、葉っぱの気孔が埃で塞がらないように霧吹きで濡らす作業も必要になった(なんせ商業施設の中はやたら埃っぽいのである)。最後に専用のスプレーをかけるとツヤが出

「花屋日記」15. 鉢物なんて大っ嫌い。

「花屋=切り花」のイメージだった私にとって、その後一番の難関となったのは「鉢物」の存在だった。店舗にはつねに大きめの観葉植物がディスプレイ兼商品として陳列してある。この植物たちの世話が思ったより厄介だったのだ。  私はいわゆる「サボテンさえ枯らす女」。ファッションエディター時代はほとんど家にいる時間がなかったため、もちろん観葉植物は置いていなかった。一度エアプランツをもらった時も「月に一度はソーキング(たっぷりの水の中に数時間漬け込むこと)しなくてはならない」と聞いて、洗面