『塔』2024年7月号より②
『塔』2024年7月号から、気になった歌をあげて感想を書きました。
(敬称略)
「泥酔女の所業」にインパクトがある。
酒に酔いすぎて羽目を外しすぎた女性は作者自身かもしれないし、そうでないとも読めるが、とにかくその話題を冷や汗をかきながら聞いていたのだろう。
「笑いつつ」とあるので、なんとか笑い話ですんだようでほっとする。
ユーモアも感じる楽しい一首。
チューリップが聞いているのは喧嘩の声。
夫が喧嘩している相手は作者だろうか。あるいは他の人かもしれない。
興奮して大声になる夫に対して、作者は傍らに咲いているチューリップを観察している。
その温度差がこの歌の読みどころだろう。
歌のやさしい言葉使いと調べにも味わいがある。
久々に受話器ごしに聞いた孫の声に成長を感じている。
「奥に重なりぬ」に一人ではなく複数の孫がいることがわかる。
なかなか直接会うことはかなわない。
頻繁にこちらから電話を掛けるのも遠慮があるのかもしれない。
「嬉しかりけり」は直接的な表現だが、一首を通して孫の声を聞いたときの 喜びが伝わってくる。
皮肉めいて聞こえるが、現在の社会の本質を捉えているようでもある。
極めて複雑となりゆく時代の流れを、作者は感じ取っているのだろう。
「ジツポオ」はライターのブランド「Zippo」のことだろうか。
自らの指に灯したライターの焔は揺れながら、手や頬に温かさを伝える。
その焔を見つめつつ、「人間の死には慣れることはない」と改めて心に誓ったのだろう。
「慣れはしないよ」という優しい口調が、逆に強い決意を含んで響く。
また「人間の死に」が結句に登場することで意外性と強い印象を残している。「人間の死」とは身近な人の死であるかもしれないが、同時に作者も知らない遠くの人に思いを寄せているようでもある。
ライターの焔は指の力を緩めればすぐに消えてしまう。そんな儚さを人の生と重ね合わせているのだろう。
桜の花びらが散るさまを見上げているのだろう。
顔に降りかかる花びらは弾くようにすべり落ちてゆく。
美しい景色だが「この顔が井戸でないこと」が個性的だ。
井戸は掘られた穴であり凹型であるが、顔は球形なので凸型であり、ふたつは逆の性質を持つ者であるが、その距離のある二つをつなげたことで強い印象を残す歌となった。
「花びら」が比喩的に使われているようでもあり、不穏さと前向きな明るさが交錯する不思議な感覚もある一首である。
さりげない歌だがしみじみとした情感のある一首。
絵を見ていた作者がいつしか絵の中のフィレンツェの町並みへ入り込んでゆく映像が浮かんでくる。
成長期の子どもたちにとって、非常につらいコロナ禍の日々であったことは間違いない。
しかし、それは高齢者の方々にとっても同様である。
特にインターネット環境のない高齢者にとってはより厳しい状況であったに違いない。
対面で人に会うことができず、正確な情報を得ることができないことは、大きな不安の日々であっただろう。
残念ながら、もう取り戻すことはできないが、そうした人々へ思いを寄せることの大切さを痛感する。
「菜の花の街からやって来た人」はアコーディオンを演奏しながら、歌を歌ったり、お話を語ったのだろう。
アコーディオンがひらく様子は蕾から花がひらく様子や蝶のイメージにつながる。
明るい色彩とアコーディオンの音楽が聞こえて来そうなさわやかな一首。
印象的なギターリフだけが記憶に残る曲も確かにあるが、その上句に対して、一字あけの後につづく展開に意外性がある。
それだけだと、目立った一部分だけ印象に残っているという冷たい感じもしそうだが、結句の「好きかな」の「かな」に微妙な心情が込められているように思える。
はっきりとした恋心とまでいかないが、予感がしている。そして、主体自身が揺れる思いを楽しんでいるようにも感じられ、甘酸っぱさのある素敵な相聞歌である。
今回は以上です。
お読みいただきありがとうございました。
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