Pさんの目がテン! Vol.11 ヴァージニア・ウルフ「ドロシー・オズボーンの『書簡集』」について 1(Pさん)

 イギリスの冬は日本のより長く、春もあけすけには訪れず、土が凍っていたのがやっと溶けたかどうか、というレベルらしい。
 今度は、もう何度目かわからないが、ヴァージニア・ウルフの別のエッセイ集で、『女性にとっての職業』を読んでいる。
 この本、記憶力の悪い僕にはよくあることなのだが、以前に図書館で借りて半分以上も読んだはずなのに、そのことを忘れていて、また借りて、三十ページくらい進んだところで「あ、これ、もしかして読んだことある……」と思い出し、それが最初だけの読みかけならまだしも、百ページ近くも「ここも読んだ気がする……」という感覚が続くのである。徒労でもあり、呆れもする。でも、ドゥルーズが「最後まで読み通すのが愛」と言っていたのは、何度も読むということも含めてそう言っているのだろうから、多少は既読だということも気にしないことにして、読んでいる。
 それで、この中の「ドロシー・オズボーンの『書簡集』」というエッセイの冒頭、イギリスの季節感について語っているところがあった。

 イギリス文学の作品を、ふと手にした読者は、春まだ浅いイギリスの田園のような、殺風景な季節が英文学史上に存在することにときどき気づくにちがいない。でも私たちは、六月のかすかなうごめきやさざめきを恋しく思い浮かべる——六月には、いちばん小さな森でさえも躍動に溢れ、ちょっと立ち止まりさえすれば、灌木の茂みであれこれと自分たちのことに忙しい、すばしっこくて、好奇心旺盛な動物たちのささやきや軽やかな足どりが耳に入ってくるのだ。同じようにイギリス文学でも、殺風景な景色が動きと震えに満ちみちて、すぐれた本と本の間の空間を人びとの話し声で満たすことができるようになるには、十六世紀が終わって十七世紀もかなり進んだ頃まで待たなくてはならない。
(ヴァージニア・ウルフ『女性にとっての職業』、「ドロシー・オズボーンの『書簡集』」、90ページ)

 よく読んでみればこれは単純にイギリスの季節について語っている箇所ではなく、その季節にたとえて、イギリス文学にもそういう時期があった、と続くらしい。しかし前にも言ったけれども、ウルフはこの、「あたかも……かのようで、」以降が長いのである。読んでいくと、たとえの方が本質だと錯覚させられる。だが、ここまで読み進めてきて認識が変わりつつあるが、これはウルフの特質というよりも、読み手としての未熟があるのではないかと思わされてきた。長い、文字にしていない大きな括弧を、頭の中で保持しきれていないのである。ましてそれが、読み手としての僕個人としての話であるならば、先述のと合わせて、非常に恥じるべきことである。
 まあ、どっちでもいい。それでこの箇所を読んで、同じイギリス文学とイギリスの冬について触れている吉田健一のエッセイを思い出した。またエッセイで、自分は小説について考えるつもりでこの連載を始めたのではないのかという疑問も、なくはないが、こんな風に言い訳がましく論を進めるのもカッコ悪いので、それにも触れずに進めることにする。

 英国の冬は寒い。雪が深くて交通が杜絶するということはあまりないが、一例を挙げると、戸外の水はかなりの河でもなければ凡て凍ってしまうので、朝、パン屑と水を出して置くと、小鳥はパン屑よりも先に水の方に行く。小鳥が凍え死にしているのも珍しくない。土はかちかちで、外へ出ると寒さが顔を打つ感じである。
 炉辺の幸福の観念が生れたのも、このことと関係があるものと思われる。
(中略)
 恐らく、英国人が家というものに対して持っている考えは、春と夏を合わせたよりも長いこういう冬の生活の条件に基いたものなのである。
(吉田健一『英語と英国と英国人』、「英国の四季」、183-184ページ

 このあと、英国人は肉をたくさん食べる粗食をするが、それも部屋の中で体温を上げるために行うのではないか、フランス人がクロワッサンと紅茶だけで済ますのとは対照的である、フランスもほぼ同緯度にあるにもかかわらずそうであるのは南方の地中海の血が流れているからで、と続く。
 吉田健一はあれだけ本を読んできて、それが大前提なのかもしれないけれども、イギリス文学というものが、ただ土の冷たさに集約されていくかのような語られ方をするのは、何ともいえないすがすがしさを感じる。完全に集約されるわけではないけれども。(続く)

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