Pさんの目がテン! Vol.8 ドゥルーズの何かの引用をツイッターで見掛けた(Pさん)

 先日ドゥルーズの誕生日があり、ツイッターなどで何回も話題に上ったのを見かけた。だいたいが、公式級のユーザーである。愛書家日誌、あとどこかの出版社。やれドゥルーズは猫好きだ、やれガタリとのツーショットだ、この写真なぞ何回見たかわからない。
 そんな中で、自分も見かけたことがあるようなないような、本に関する発言があった。

何かを最初から最後まで読む。これが愛を持った読書だ。
ジル・ドゥルーズ

 これがどこからの引用だったか、わからない。でも言いそうなことだとも思う。ドゥルーズは、あれだけ断片的で寸断された引用の仕方をするようでいて、実は読み通した内容ありきでああいうことを書いていた。
 ドゥルーズが、例えば、ヒュームの哲学について語るとき、まるで、ベーコンがゴッホの絵を再解釈して描いた絵のようだと思う。
 フランシス・ベーコンが、ゴッホの絵をモチーフにしていくつか絵を書いているけれども、全体として似ているのに、その全体としてベーコン独特のグロテスクさみたいなものがまた満ちていて、まるで内臓がかき回されたようだと思ったのを覚えている。
 人間の皮膚だけをそのまま残しながら、中身をミキサーにかけて満たしたもの、というイメージを抱いた。
 ドゥルーズの解釈にもそういうところがある。初期のヒューム論、論というよりは詳細に哲学の筋(?)を追っていくような形式になっていたけれども、ヒュームが対象にしていた語彙を使って、ヒュームが何を言っているのか解説しているはずが、何だかよくわからない思考の塊に満たされているという感じがしたのである。
 もちろん僕の天性の理解力のなさは遺憾なく発揮されているとは思うけれども、少なくとも、ドゥルーズのヒューム論が密度が濃く込み入っていて、明らかにヒューム本人が言っていることの方が単純だと感じた。
 ドゥルーズのヒューム論というのは、確か正面切って語っていた「経験論と主体性」の方ではなく、「無人島」かなんかに載っていた初期の論文で、ヒュームの方は「人間本性論」の序論を読みかじっただけなので、お察しである。
 ヒュームの哲学をこれだけバラバラにして構成し直すということが出来るのは、やはりここで言う「愛」、しつこく読むことが基盤としてあるのだろう。
 決して、読みかじって知ったような口を聞いてはいけないということだ。

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