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実体験の伴わない空間での体験をリアルに感じられるのには、リアルな経験があるからなのか、なくても成立するのか

2022.6.7〜7.31まで大倉集古館で開催されていた「芭蕉布ー人間国宝・平良敏子と喜如嘉の手仕事ー」の図録を購入した。

レイアウトのお陰か、それとも昨今のオンライン事情による体験によって、私の脳の機能が幾分か変質したからか、
ページを進めると、自分がどこか架空の会場にいて、展示物を観ながら少しずつ歩みを進めている感覚になるから不思議な気持ちになっている。図録だけでこのような体験をしたことは、これまで無かった。

もちろん実物を見るのに越したことはないし、その迫力は図録とは雲泥の差であろうことは想像に難くないが、

これだけでも十分に学び得るものは多く、感じ入る深さは同じである。有り難い。



これは現在私が在学している京都芸術大学の学びの体験にも似ている。全過程がオンラインで完結するので札幌に居ながらまるで本当にキャンパスライフを送っているかのような気分になるのだが、
疑似体験?でも体験としてはリアルだ。

実体験の伴わない空間での体験をリアルに感じられるのには、リアルな経験があるからなのか、なくても成立するのか、という事を、こうした体験をするたびに毎度考える。
私は美術館に行ったことがあるし、大学に通っていたこともある。だからリアルに感じることができるのか? それとも、リアルな体験がなくても脳内でリアルを構築できる能力が、人間には備わっているのか。

私が体験したことのないこと〜例えば宇宙に行く疑似体験をしたとして、それを私はリアルな体験として感じるのだろうか。いやその前に、飛行機に乗った事があるから、それと結びつけて体験してしまう?やはり実体験からは抜け出せないものなのだろうか?

ともかく、今手元にある図録のお陰で私は好きな時にいつでも展示会場へ行く事ができる。
すると、図録がまるで美術館への扉のように見えてきて、さらには、本棚に並んでいる本全てが、どこかへ通じる入り口のように見えてきて、なんだか楽しい。


【雪草乃記 vol.18】2022.9.24
だいたい毎週土曜日朝配信

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