サウナとは、理性からの解放である。

日が沈み始めた夕暮れ時。研究室を出て、近場の銭湯へと自転車で向かう。
乱雑に置かれたママチャリの群れの間にわずかばかりの隙間を見つけ、他の自転車を倒さないよう、細心の注意を払って駐輪する。

派手な色使いで「男湯」と書かれた暖簾を潜り抜け脱衣所に入ると、銭湯特有のむわっとした空気に包まれる。
そういえば、今日は衝動的に来てしまったせいで、タオルやらボディソープやらシャンプーやら忘れてきてしまった。受付のおっちゃんに危うく通常料金だけ払うところを思いとどまり、数十円さらに払って貸しタオルと試供品サイズのボディソープとシャンプーを購入する。

脱衣所で服を脱ぎながら、今日本当に来るべきだったのか、自分の体に問いかける。
正直、迷いなくサウナに入れるほどコンディションが整っているとはいえない。基本的にサウナに入る時は、体も心もあの過激な熱を耐え忍ぶ準備ができていなければいけないように思うのだ。それでなければ、あのある種の苦行に全身で浸れるような気がしない。丸腰で挑むサウナに、一体どれほどの価値があるというのだろうか。

しかし、しかしである。衝動的にここにたどり着いてしまったのはわけがある。


今週はいろいろと考え込みすぎて疲れてしまったのだ。

週の半ばにあったゼミでの研究発表。完全に教授や先輩にオーバーキルされた。こう言うと自分が一方的に被害者のように聞こえてしまうので、訂正する必要があるな。
まあ要は、自分の研究に今一つ自信が持てなくなってしまったのだ。このデータを使うことに将来性はあるのかとか、自分の問い方はまるでセンスのかけらもないんじゃないかとか、そんなことを考えていると何をしたらいいのかわからなくなってしまって、なんの先行研究にあたればいいのかも判然としなくなってしまった。

就活は上手くいってるのかそうでないのかもよくわからない時期だし、バイト先は昨今のパンデミックでゴタゴタしていてこのまま続けられるかどうなのかもよくわからない。

状況が不確定な中でできそうなことはある気がするけど、なんだか今一つ気乗りしない。気乗りしない自分がなんだがひどく怠慢に覚えてくる。言葉にならない日常への違和感がこみあげてくる。考えたいけど面倒くさい、そしてそんな自分が腑に落ちない。

うん、とにかく今は、考えすぎないことが大事なのかもしれない。
サウナにでも入って瞑想するかぁ。

そこまで回想し終わった頃には服と荷物はロッカーに閉じ込められていた。
もう後には引き下がれない。

備え付きの自販機で水を購入したら、それとシャンプー云々を洗面台の隅に申し訳なさそうに置いておき、いざ浴場へ。


まずは体を軽くシャワーで洗い流す。
そして掛湯をし、適当な温度の湯船につかって体を慣らしていく。
お湯だけでも十分気持ちいい。下宿ではもっぱらシャワーを浴びるだけだから、湯船につかることすなわち幸福なのだ。

しかし一度至高の領域を知ってしまったサウナ―が、それだけで満足できるはずもない。自分とてまだサウナ歴は浅いものの、サウナ―の端くれとしてしっかりPDCAサイクルを回せるよう、今宵のルーティンワークをできるだけ鮮明にイメージしなければならない。

さて、そうこうしている内に体が温まってきた。
湯船から上がり、隣接する水風呂の水を頭から被る。過酷な世界の中で己を包む鎧をまとったら、シートを手に取りサウナという戦場の扉を開く。

サウナの中には、すでに2人ほど先客がいるようだ。一粒残らず落ち切ってしまった砂時計をひっくり返し、シートをしいて扉から少し離れたところに陣取る。
それにしても、銭湯はこの時間になると近所に住んでいるであろうおっちゃんでにぎわっている。知り合いも多いようで、サウナの中ではおっちゃん同士の会話が次々に飛び交う。東京では感染者数がどうだとか、最近なんとかの仕事をしててだとか、日々の生活についての話題には事欠かないようだ。大学院生の自分からしたらエビデンスが気になる話がいくつかあるが、まあ実家の父親もこんな風な話よくするよなとか思い返して、暑さに任せてそのまま右から左へ聞き流すことにする。

そういえば、と思い砂時計に目を向けると、頃合いとしては3分経ったくらいだろうか。
暑い。もう暑い。
体からほとばしる汗は不自然なほど熱を帯びていて、全く体を冷やしてくれていない。
でも3分じゃ、整うためにはまだ早すぎる。
時間を忘れるために、おっちゃんたちの会話と控えめに流れる旧めの邦楽をBGMに、最近の違和感について思考をめぐらす。もっとも、思考をめぐらしても、これから研究どうしようとか、就活このままでいいのかなとか、そんな散漫的な考えが浮かんでは消え浮かんでは消えていくだけなのだが。

思考を巡らせながらもちらちらと気にしていた砂時計を見て察するに、そろそろ7分くらい経ったころだろうか。ぼちぼちだろう。いざ出るとなるともったいぶる気持ちも出てきてしまうが、こういうのは勢いだ、とばかりに扉を開け、灼熱の砂漠の脇に佇むオアシスへと直行する。

水を頭から被って汗を洗い流したら、勢いそのまま、水風呂のなかに体を沈めていく。瞬間、体に張り巡らされた自律神経がピシッと引き締まる。血管が収縮し、頭がぼーっとしてくる。体の中核にはサウナの熱が残りつつも、表面が急速冷却されることで熱はしっかりと閉じ込められていくのだ。

まさにこれだ。この感覚。シンプルに体が喜んでいる。
3分ほど水風呂につかった後は、しばし体を浴室の生ぬるい風にあてつつ、体を休めるため程よい温度の湯船を探す。

今日はこの湯船にしよう。そう決めたら、そのあとは小さな葛藤が待ち構えている。
このまま浴室の風に体を当てつつ、足湯程度を楽しむべきか。
それとも、ゆっくりと湯船に沈み込んでいき、収縮した血管を遊ばせてやるか。
迷いながらも、今日は足湯を楽しみながら体を一息つかせることにした。

自然と、ぐるぐる考えることを止めている自分に気づいた。
今、自分は自分の体をケアすることに専念していて、それ以外のことを考える余白もないし、そこに一切の迷いもない。
ただそこに存在するのは、圧倒的な「快」。
サウナから水風呂、そして湯船に足をつけて身体を休ませる過程のなかで、がんじがらめだった思考の糸は解けていき、いつの間にやら目先の快のみを噛み締めることに集中しているのだ。

それはつまるところ、サウナが理性からの解放であることの証左だと思う。
そもそも普段人は理性的な判断の中で生き過ぎている。何事も合理的に、スマートに判断し表現することが求められる。研究だの就活だの仕事だのは、その最たる例だ。そう、我々は曖昧な感性や伝統から自由になる代わりに、今度は理性の牢獄に囚われてしまった悲しい生き物なのである。
しかし、人はサウナを経ることで、そうした理性的思考から解き放たれる。近代的な心身二元論では心と体は切り離されてきたが、サウナを経由した今、自分の心と体は一体となり、圧倒的な快に没頭している。

そのまま外気浴のために一度脱衣所に出る。引き締まっていた自律神経は弛緩し、呼吸は整えられ、心も体も澄み切っていく。
今日もまた、「整って」しまった…。
ひとしきり外気にあてられ休んだ後は、洗面台の隅に仕込んでおいた水を2口補給し、一息つく。そしてまた、引き寄せられるようにして浴場に入り2セット目を開始する。
より質の高い「整う」を求めること。それこそが、今の自分の人生における至上命題だ。


3セット目を終え、汗を洗い流して髪と体を洗った。
浴室を出て今日の「整う」までの所作を振り返る。うん、今日もいいサウナだった。やっぱり途中の水分補給、あれが効いたな。
扇風機が送るそよ風に充てられながら、テレビから流れる今日のプロ野球の試合結果をぼんやり眺め、身支度をする。

火照った体に無用な汗をかかせぬようゆっくりと着替えながら、なんだか自分がサウナに入る前に感じていた不安とか焦りとかといった負の感覚は、案外大したことじゃないなと思えるようになっていることに気づいた。
やっぱり今週は肩に力が入りすぎていたなとか、冷静に考えて今そんなに焦らなくてもいいなとか、そんな安らいだ気持ちになっていた。のんべんだらりと、また明日からがんばればいいじゃないの。

脱衣所を出るときに受付のおっちゃんに「ありがとうございました」といったとき、思いがけず笑顔になってしまった。おっちゃんも優しく「おおきに」と返す。
入ったときとの心の余裕の違いをなんとなく感じながら、いつのまにか台数がわずかになった自転車の群れから自分のものを取り出し、夜風を切って帰路を進む。

寒くなってはきたけれど、今日はまだましなほうだ。それも手伝ってか、夜風が妙に心地いい。このまま家に着いてしまってもいいなと思いつつ、家の近くの赤い看板を見つけて思わず自転車を止めた。
いそいそと入ったコンビニで缶ビールを一本買い、自転車を引きながら家までわずかの距離を飲み歩く。まだほのかに熱が残る体に流し込むビールが美味い。ささやかな幸福で体が満たされる。

ああ、今日もいいサウナだったなぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?