夏蛇とアンサンブル

青年期たちまち昏れて蛇屋にはむせびつつ花梗なす夏の蛇
水銀傳説 / 塚本邦雄

 僕が自分のセンスのなさに気がついた時、同時に音楽というものが全く見通しの効かない巨大な不透明の暗黒に覆われた宇宙になったような気がして、本当に戦慄した。宇宙はあまりに広大すぎて、もうどれだけ大音量でギターを弾き鳴らしても、何にも触れることができなかった。昔はそれだけでいいと思っていたのに、そう思わなくなってしまった。それはいつかの夏のことだった。多分、窓の外の世界が今よりも少しだけ騒々しかった時のことだと思う。

1.音楽という装置

 (文・スズキ)今更ながら、この記事の方向性について一つ。ここでは、センスがないと自覚するバンド者(十分に配慮された名称)がどのようにして音楽をすることを趣味としていくか、について幾つかの観点を述べる。初心者向けである。注意事項として明言しておくが、十分に構造化されていないので、とりあえずこれはただの日記である。

 それでは最初の問題。

 音楽ができるようになって、それで何?

 昔はそんなことにすら、うまく答えられなかった。バンドをやって人と繋がることが出来ました、だとか、多くの人に夢や希望を与えることができました、だとか就活面接の受け答えのような言葉ばかり浮かんでくることもあれば、それよりは少しマシになって、人の感情を表現し伝えることによって他人と共感する、強い意思を伝える、或いはちょっと斜に構え、単なる気晴らし、人生は死ぬまでの暇つぶし、とか言ってしまうだろう。

 でも、意思を伝えたからといって、何になるのだろう。というか、なんの意思を伝えるの?今日は暑いからアイスが食べたい、とか? 対バンのいい感じのバンド者仲間と打ち上げでお近づきになりたい、とか。或いは、思想。社会的問題点の共有。いや、そんなものは無いし、できれば僕はそんな難しいことなど何も考えずにいたい。

 僕のように高尚ではないけど、バンドで音楽をやってみたい、とかいう人はいると思う。同じ年代でスポットライトを浴びながらキラキラ輝き、よくわからないけどとりあえず間口の広い言葉を発している人を見て、もやもやとしているような人。夢や希望、何それ、美味しいの? なんて言って。でもこれは僻んで言っている訳ではないのだ。おいしいかどうかは重要な観点なのだ。言い換えると以下のようになる。

 音楽をすることで何が嬉しいか

 先に述べておくが、この問いをするような連中は、はっきり言って人でなしである。音楽は楽しくやってなんぼだし、みんなが笑顔になればそれでいいじゃん。でも、そこでにこにこ笑いながらも、心の中では音楽の価値や意味に囚われてぐるぐる悩んでいるような人にとっては究極の命題である。

 少し前までは多くの音楽にとって価値などどうでも良かった。特にアマチュア界隈では。少なくとも僕はそう思う。一部の「尖った」「知る人ぞ知る」「バンド者受けする」連中はそうではなかったかもしれないが、大体は楽しくやって、客がいて、笑顔になって、それで良かった。でも今はそうではない。世界線は一つレールを跨いでしまった。ライブをやるということに金銭以外のリスクが生じた。もうタダでは音楽なんてできなくなってしまった。人は大っぴらにバンドのライブへ行って楽しかったなどとTwitterで呟けなくなったし、ライブハウスも細心の注意を払うようになったし、そこで鳴らされる音楽が適当ではいけなくなったように思う。もうここでは嬉しくないものをダラダラとやる余裕なんてない。

 誤解しないで欲しいけど、下手なバンドや勢い重視のガレージな感じの音楽を無価値とする訳じゃない。それは聞いていて嬉しいものだし、無味乾燥な言葉で言えばストレス発散にもなる。これは非常に重要な効用だ。効用。そう、多分その言葉が一番はっきりしている。音楽は効用を持つのだ。効用が生まれるからには作用機序があり、複雑な構造を持つ音楽にはそれ自体に機能がある。機能が生じたからには目的がある。そんな感じで死ぬほど雑に音楽をリバースエンジニアリングすると、目的・機能・効用の三層構造になっているように思える。

 音楽の目的・機能・効用。そのどれをとっても、こんな思いついたベースで書き綴る裸一貫の日記では太刀打ちできないほどに強大なテーマなので、今はあまり触れたくはない。少なくとも、これらが欠けているようだと、音楽としては不完全であるように僕は感じる。

 じゃあ、どうしたらこれら三つのファクターをコントロールしつつ音楽を組み立てていけるのだろう。しっかりと目的があり、それに見合った機能を持ち、十分な効用を発揮する音楽は一体何によって得られるものだろうか。

 答え : センス

 怒らないで欲しいけど、これはもうセンスとしか言いようがない。そうじゃない? もはやセンスとしか言いようのない天才性によって音楽は形作られ、そして今も世界中で流れている。もっぱらカバーバンドメインで楽器を教わった僕にとって、これは恐ろしい事実である。僕らが目で見て、手で触るように、センス保持音楽製作者たちは耳で見て、耳で触れて、耳で組み上げる、その音楽を。

 ああ、大変なことになった。音楽はセンスで出来ているのだ。僕は今までの人生の中でセンスがあるなんて言われたことは数少なく、というか無く、センスが人の形をとって目の前に居れば刺し違えてでもこの世から消し去りたいほどのコンプレックスの持ち主なのであるため、上記の考えにたどり着いた時、本当に真っ暗になった。これが、冒頭の話だ。

 さて、それでは次の問題。

 センスって何?

 その話はまた今度。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?